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	<title type="text">広報の目</title>
	<subtitle type="text">広報コミュニティ-日本広報協会</subtitle>
	<updated>2012-05-18T03:50:31+09:00</updated>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.33</title>
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		<published>2010-02-22T09:35:17+09:00</published>
		<updated>2010-02-22T09:35:18+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">列車の写真撮影を趣味とする「撮り鉄」と呼ばれる鉄道ファンが、お座敷列車の「あすか」を撮影しようと線路内に立ち入り、列車のダイヤを乱したという記事があった。電車で通勤していると、駅でもない所に突然停車して、線路内に人が立ち入ったため安全確認中であるというアナウンスに出会うことがある。ものの5分も停車するだけで、携帯電話で連絡を取る人が出てくる。日本の鉄道は時間が正確であることを誇りにしている。鉄道ファンと言われる人たちの中には、時刻表と首っ引きで乗り継ぎを楽しんだり、鉄道旅行の楽しさを写真やスケッチで表現したり、車両の歴史や構造について専門家はだしの知識を蓄えている人も少なくない。列車の写真撮影には、まず安全で、しかも迫力のある撮影ができる場所を選ぶことにこそ時間をかけるという「撮り鉄」もいるはずだ。恐らく今回の報道にあるような「撮り鉄」には自分の趣味に誇りをもっている鉄道ファンが一番腹を立てているのではないか。趣味の世界にはこれと似たようなことがよくある。例えば犬を散歩させるときのフンの問題。犬の散歩コースや時間帯は概ね決まっている飼い主が多いようで、したがってお互いに顔を会わせることも多く、それぞれ処理用のふくろを下げて散歩を楽しんでいるように見える。しかし稀にではあるが、寒い小雨の日の翌朝などに、放置されたままになっているのを見かけることがある。犬の好き嫌いにかかわらず不快感を覚える人が多いと思うが、特に愛犬家は居たたまれない気持ちになるのではないか。湿原といわれる景勝地や人気の高い登山、トレッキングコースなどでも似たようなことがある。自然が嫌いだという人はいないかもしれないが、わざわざ苦労をしてまで登山にでかけようとは思わない人はいる。そういう人は少なくとも山を汚したり、山の動植物を徒に傷つけたりすることはない。そういう人の目からすれば、富士山が世界遺産に登録されなかったのは、富士登山を趣味のようにしている人たちに責任があるように見えるかもしれない。これは登山愛好家にとって耐え難い屈辱だろう。この種の問題は趣味の世界に限ったことではないかもしれない。同列に扱うことには多少違和感があるかもしれないが、介護施設や障害者施設で必死に頑張っている施設関係者にとっては、同種施設でいじめとか虐待の報道を見たり、聞いたりすることは大変な苦痛に違いない。自分の取り組んでいる仕事を、同じ仕事の仲間と見られている人に穢されるほど辛いことはない。更に飛躍することを許していただけば、この日本を少しでも明るく、公平で、住みやすい国にしようという信念から政治家の道を選択したはずであるにもかかわらず、政治活動の基盤ともいうべき資金の問題でその姿勢を問われる仲間が出てくる現状を、有権者の失望は当然のことながら、政治家自身どのように受け止めているのか。政治家は多かれ少なかれ公にできない資金集めの事情があるなどと勘ぐられたくないのであれば、もう少し歯切れのいい、真剣な議論を国会の場で戦わせることがあってもいいのではないか。</summary>
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<![CDATA[<div>列車の写真撮影を趣味とする「撮り鉄」と呼ばれる鉄道ファンが、お座敷列車の「あすか」を撮影しようと線路内に立ち入り、列車のダイヤを乱したという記事があった。電車で通勤していると、駅でもない所に突然停車して、線路内に人が立ち入ったため安全確認中であるというアナウンスに出会うことがある。ものの5分も停車するだけで、携帯電話で連絡を取る人が出てくる。日本の鉄道は時間が正確であることを誇りにしている。鉄道ファンと言われる人たちの中には、時刻表と首っ引きで乗り継ぎを楽しんだり、鉄道旅行の楽しさを写真やスケッチで表現したり、車両の歴史や構造について専門家はだしの知識を蓄えている人も少なくない。列車の写真撮影には、まず安全で、しかも迫力のある撮影ができる場所を選ぶことにこそ時間をかけるという「撮り鉄」もいるはずだ。恐らく今回の報道にあるような「撮り鉄」には自分の趣味に誇りをもっている鉄道ファンが一番腹を立てているのではないか。<br /><br />趣味の世界にはこれと似たようなことがよくある。例えば犬を散歩させるときのフンの問題。犬の散歩コースや時間帯は概ね決まっている飼い主が多いようで、したがってお互いに顔を会わせることも多く、それぞれ処理用のふくろを下げて散歩を楽しんでいるように見える。しかし稀にではあるが、寒い小雨の日の翌朝などに、放置されたままになっているのを見かけることがある。犬の好き嫌いにかかわらず不快感を覚える人が多いと思うが、特に愛犬家は居たたまれない気持ちになるのではないか。湿原といわれる景勝地や人気の高い登山、トレッキングコースなどでも似たようなことがある。自然が嫌いだという人はいないかもしれないが、わざわざ苦労をしてまで登山にでかけようとは思わない人はいる。そういう人は少なくとも山を汚したり、山の動植物を徒に傷つけたりすることはない。そういう人の目からすれば、富士山が世界遺産に登録されなかったのは、富士登山を趣味のようにしている人たちに責任があるように見えるかもしれない。これは登山愛好家にとって耐え難い屈辱だろう。<br /><br />この種の問題は趣味の世界に限ったことではないかもしれない。同列に扱うことには多少違和感があるかもしれないが、介護施設や障害者施設で必死に頑張っている施設関係者にとっては、同種施設でいじめとか虐待の報道を見たり、聞いたりすることは大変な苦痛に違いない。自分の取り組んでいる仕事を、同じ仕事の仲間と見られている人に穢されるほど辛いことはない。更に飛躍することを許していただけば、この日本を少しでも明るく、公平で、住みやすい国にしようという信念から政治家の道を選択したはずであるにもかかわらず、政治活動の基盤ともいうべき資金の問題でその姿勢を問われる仲間が出てくる現状を、有権者の失望は当然のことながら、政治家自身どのように受け止めているのか。政治家は多かれ少なかれ公にできない資金集めの事情があるなどと勘ぐられたくないのであれば、もう少し歯切れのいい、真剣な議論を国会の場で戦わせることがあってもいいのではないか。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.32</title>
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		<published>2010-02-12T09:41:14+09:00</published>
		<updated>2010-02-12T09:41:14+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">国会議員は、「政治倫理の確立のための国会議員の資産等の公開等に関する法律」の規定により、当選の日から100日以内に資産等報告書を所属する議院の議長に届け出ることとされている。この制度は、「国会議員の資産の状況等を国民の不断の監視と批判の下におくことにより、政治倫理の確立を期し、もって民主政治の健全な発達に資する」ことを目的としている。別の言い方をすれば、国会議員が政治活動によって不当な蓄財をすることがないように、国民に監視する手段を担保するという制度である。当座預金、普通貯金は除くことになっている。したがって現金で保有していれば報告の義務はない。というか、虚偽の報告をしても罰則があるわけではないから、もともと義務を課すような制度にはなっていない。罰則を課してまで報告を義務付ける性格の問題ではないということなのかもしれない。それ以上のことは、報告する政治家に任せておいても、この制度が十分「民主政治の健全な発達に資する」ということなのだろう。この法律の規定によって今回公開された資産等報告書によれば、民主党幹事長の資産は2億円弱。土地、建物、有価証券など併せてこれだけの資産の人が、必要に応じていつでも用立てられるようにということで手元に4億円の現金を置いておく。政治活動の用に供する土地を購入する際に一時立て替えることはあったが、その後直ぐに関連する政治団体の方から返却されたということだから、今も恐らく現金の形で個人事務所に保管されているのだろう。資産としての報告を求められない当座預金や普通貯金で保管する方が安全のような気もするが、政治活動には現金である必要があるのかもしれない。いや、政治活動に必要ということであれば、多少の時間はかかっても関連する政治団体から４億円くらい集めることはできる。何も個人の資金を、利子もつかず、安全性にも問題のある方法で保管しておく理由はない。むしろ銀行を利用すれば金銭の出入りは記録されるし、経理担当者が関与するようなことがあったとしても、その事務的な負担はかなり軽減されるはずだ。などと単純に考えてしまうが、政治活動には一般国民の考え及ばないことがいろいろあるのだろう。政治を目指す人たちの中には、自分なりに尊敬する政治家像を描いてそれに近い政治家の指導を仰ぐという人もいる。単にその政治家の政治信条とか政策に共感するというだけではなく、その人の生活振りなり日常の活動についても学ぼうと心がける。まして歴史的な政権交代を成し遂げた政党の実力者ともなれば、直接その指導を受けたいと願う若手の政治家も少なくないだろう。選挙を勝ち抜いてこそ一人前の政治家であり、多数を制してこそ責任政党としての役割を果たすことができるという考えも、あながち否定することはできない。しかしいくら政治に金がかかるといっても、個人資産の2倍にも及ぶ現金をいつでも融通できる状態にしておくことが実力政治家の要件であるというような思い違いはしてほしくない。そこまで金のかからない政治をどうしたら実現できるかということにこそもう少し本気で取り組んでもらいたい。そのためには、多額な金銭の出入りまですべて秘書任せにするのが実力政治家の度量だというような錯覚に陥らないことが基本的に必要ではないか。</summary>
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<![CDATA[<div>国会議員は、「政治倫理の確立のための国会議員の資産等の公開等に関する法律」の規定により、当選の日から100日以内に資産等報告書を所属する議院の議長に届け出ることとされている。この制度は、「国会議員の資産の状況等を国民の不断の監視と批判の下におくことにより、政治倫理の確立を期し、もって民主政治の健全な発達に資する」ことを目的としている。別の言い方をすれば、国会議員が政治活動によって不当な蓄財をすることがないように、国民に監視する手段を担保するという制度である。当座預金、普通貯金は除くことになっている。したがって現金で保有していれば報告の義務はない。というか、虚偽の報告をしても罰則があるわけではないから、もともと義務を課すような制度にはなっていない。罰則を課してまで報告を義務付ける性格の問題ではないということなのかもしれない。それ以上のことは、報告する政治家に任せておいても、この制度が十分「民主政治の健全な発達に資する」ということなのだろう。<br /><br />この法律の規定によって今回公開された資産等報告書によれば、民主党幹事長の資産は2億円弱。土地、建物、有価証券など併せてこれだけの資産の人が、必要に応じていつでも用立てられるようにということで手元に4億円の現金を置いておく。政治活動の用に供する土地を購入する際に一時立て替えることはあったが、その後直ぐに関連する政治団体の方から返却されたということだから、今も恐らく現金の形で個人事務所に保管されているのだろう。資産としての報告を求められない当座預金や普通貯金で保管する方が安全のような気もするが、政治活動には現金である必要があるのかもしれない。いや、政治活動に必要ということであれば、多少の時間はかかっても関連する政治団体から４億円くらい集めることはできる。何も個人の資金を、利子もつかず、安全性にも問題のある方法で保管しておく理由はない。むしろ銀行を利用すれば金銭の出入りは記録されるし、経理担当者が関与するようなことがあったとしても、その事務的な負担はかなり軽減されるはずだ。などと単純に考えてしまうが、政治活動には一般国民の考え及ばないことがいろいろあるのだろう。<br /><br />政治を目指す人たちの中には、自分なりに尊敬する政治家像を描いてそれに近い政治家の指導を仰ぐという人もいる。単にその政治家の政治信条とか政策に共感するというだけではなく、その人の生活振りなり日常の活動についても学ぼうと心がける。まして歴史的な政権交代を成し遂げた政党の実力者ともなれば、直接その指導を受けたいと願う若手の政治家も少なくないだろう。選挙を勝ち抜いてこそ一人前の政治家であり、多数を制してこそ責任政党としての役割を果たすことができるという考えも、あながち否定することはできない。しかしいくら政治に金がかかるといっても、個人資産の2倍にも及ぶ現金をいつでも融通できる状態にしておくことが実力政治家の要件であるというような思い違いはしてほしくない。そこまで金のかからない政治をどうしたら実現できるかということにこそもう少し本気で取り組んでもらいたい。そのためには、多額な金銭の出入りまですべて秘書任せにするのが実力政治家の度量だというような錯覚に陥らないことが基本的に必要ではないか。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.31</title>
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		<published>2010-02-01T09:27:52+09:00</published>
		<updated>2010-02-01T09:27:52+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">四半世紀以上も前にスイスのジュネーヴを勤務地としていた仲間の会合が毎年1月に東京で開催される。特別の事情がない限り夫婦揃って参加する。この日以外にはめったに顔を合わせることのない人たちが少なくない。それでも、ジュネーヴ在勤当時は家族ぐるみの付き合いが普通で、スキーやゴルフなどを含めたいろいろな会合で顔を合わせる機会が多かったためか、話し込むとつい長くなってしまう。土地柄から、在外公館の職員以外に、国際機関、金融、観光、通信関係など多様な職種の人たちが集う。既に現役の仕事からは離れて、大学やNGOで活躍している人もいれば、趣味を生かした生活を楽しんでいる人もいる。そんな中で現役の裁判官と話をする機会があった。何かマスコミで話題になっているような事件に関連した苦労話でも聞いてみよう、と思った。ところが今、彼にとって一番気がかりなことは裁判員制度の問題だという。これまで裁判員制度で扱われてきた事件は犯罪の事実関係がすべて確定していて、量刑をどうするかという事件だけだったが、今年からは証拠に基づいて事実関係をどう判断するかという事件も扱うことになるのだという。しかし証拠に基づいた事実関係の認定は、経験も知識も備えた専門家の仕事であって、素人の裁判員に委ねられるべき性格の仕事ではないでしょう、そこまで一般国民の感覚を参考にするということになるのであれば、裁判官は裁判員に対して、証拠の持つ意味合い、疑問点などを説明した上で、自身の判断も参考提示せざるを得ないのではないか、と聞いてみた。そこが難しいのだという。結論を誘導するような説明をしてはならないことになっているから難しいのだという。確かに重大事件で状況証拠と自白だけが証拠とされる事件も少なくないようだ。しかも裁判の過程で自白の任意性が疑われるような事件も出てくる。取調べの可視化を図るべきだという議論もよく聞かれるようになった。マスコミの報道が先行して裁判所の判断に違和感を抱かせるようなケースもある。検察審査会の意見で強制的に起訴される事件もあった。情報が錯綜し、居住環境や家族構成が変化し、生活に関連する制度の仕組みが複雑化するとそれにつれて犯罪も多様化してくる。犯罪の多様化と情報化社会の進展に伴って国民の感覚と裁判所の判断との間にずれを感じさせる事例が出てくるのはやむを得ないことかもしれない。裁判員制度には、この種のずれをできるだけ少なくするというねらいが大きな役割の一つとして期待されているはずだ。別の言い方をすれば、この裁判員制度は、必ずしも事実関係の判断をより真実に近づけようという考え方に立つものではない。場合によっては、裁判官がその任務に忠実であろうとすればするほど、自身の知識経験と異なる結論を導き出すことも起こり得る。いずれにしても、制度運用のあり方にもよると思うが、国の根幹ともいうべき裁判に対する国民の信頼がより揺るぎないものとなることを期待したい。話はずれてしまうが、帰りがけの雑談で、最近テレビに登場する政治家には随分弁護士出身という肩書きが目に付く、ということが話題になった。言われてみれば、確かに弁護士出身の政治家が多くなったような気がする。政治の世界だけではなくバラエティー番組などでもよく見かけるようになった。一種の社会現象だろうか。</summary>
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<![CDATA[<div>四半世紀以上も前にスイスのジュネーヴを勤務地としていた仲間の会合が毎年1月に東京で開催される。特別の事情がない限り夫婦揃って参加する。この日以外にはめったに顔を合わせることのない人たちが少なくない。それでも、ジュネーヴ在勤当時は家族ぐるみの付き合いが普通で、スキーやゴルフなどを含めたいろいろな会合で顔を合わせる機会が多かったためか、話し込むとつい長くなってしまう。土地柄から、在外公館の職員以外に、国際機関、金融、観光、通信関係など多様な職種の人たちが集う。<br /><br />既に現役の仕事からは離れて、大学やNGOで活躍している人もいれば、趣味を生かした生活を楽しんでいる人もいる。そんな中で現役の裁判官と話をする機会があった。何かマスコミで話題になっているような事件に関連した苦労話でも聞いてみよう、と思った。ところが今、彼にとって一番気がかりなことは裁判員制度の問題だという。これまで裁判員制度で扱われてきた事件は犯罪の事実関係がすべて確定していて、量刑をどうするかという事件だけだったが、今年からは証拠に基づいて事実関係をどう判断するかという事件も扱うことになるのだという。しかし証拠に基づいた事実関係の認定は、経験も知識も備えた専門家の仕事であって、素人の裁判員に委ねられるべき性格の仕事ではないでしょう、そこまで一般国民の感覚を参考にするということになるのであれば、裁判官は裁判員に対して、証拠の持つ意味合い、疑問点などを説明した上で、自身の判断も参考提示せざるを得ないのではないか、と聞いてみた。そこが難しいのだという。結論を誘導するような説明をしてはならないことになっているから難しいのだという。<br /><br />確かに重大事件で状況証拠と自白だけが証拠とされる事件も少なくないようだ。しかも裁判の過程で自白の任意性が疑われるような事件も出てくる。取調べの可視化を図るべきだという議論もよく聞かれるようになった。マスコミの報道が先行して裁判所の判断に違和感を抱かせるようなケースもある。検察審査会の意見で強制的に起訴される事件もあった。情報が錯綜し、居住環境や家族構成が変化し、生活に関連する制度の仕組みが複雑化するとそれにつれて犯罪も多様化してくる。犯罪の多様化と情報化社会の進展に伴って国民の感覚と裁判所の判断との間にずれを感じさせる事例が出てくるのはやむを得ないことかもしれない。裁判員制度には、この種のずれをできるだけ少なくするというねらいが大きな役割の一つとして期待されているはずだ。別の言い方をすれば、この裁判員制度は、必ずしも事実関係の判断をより真実に近づけようという考え方に立つものではない。場合によっては、裁判官がその任務に忠実であろうとすればするほど、自身の知識経験と異なる結論を導き出すことも起こり得る。いずれにしても、制度運用のあり方にもよると思うが、国の根幹ともいうべき裁判に対する国民の信頼がより揺るぎないものとなることを期待したい。<br /><br />話はずれてしまうが、帰りがけの雑談で、最近テレビに登場する政治家には随分弁護士出身という肩書きが目に付く、ということが話題になった。言われてみれば、確かに弁護士出身の政治家が多くなったような気がする。政治の世界だけではなくバラエティー番組などでもよく見かけるようになった。一種の社会現象だろうか。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.30</title>
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		<published>2010-01-21T16:00:00+09:00</published>
		<updated>2010-01-21T16:07:47+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">政治には金がかかると言われる。そう言われる中で政治を目指して苦労をしている人たちが沢山いる。素直に考えればそれだけわが国には国家国民のために貢献することを使命と考えて、日々政治活動に励んでいる人たちがいるということになるのだろう。金銭には代えられない達成感があるのかもしれない。確かに選挙に当選した人たちの映像を見ているとそういう雰囲気が伝わってくる。当選した本人だけでなく、支援者の喜びようも相当なものだ。しかし選挙に勝つことは職業政治家としてのスタートに過ぎない、はずだ。政治家を受験生に例えるのは失礼かもしれないが、受験にも金がかかるし、目指す大学に合格したときの達成感にも似たような雰囲気を感じる。大学生になって、より高度な学問を身につけるのか、資格の取得を目指すのか、学生生活を満喫するのか、いろいろあるだろう。政治家の場合には公約の実現ということになるのだろうか。このところ政治と金に関する話題がマスコミを賑わせている。政治に金がかかるというのは選挙のときに限らない。政策の提言、選挙民の意向把握、政治動向に関する情報収集などのためにはそれなりの経費がかかる。それだけの経費をかけてする政治という職業は一体どのようなものなのだろうか。昔学生の頃読んだ本の中に確か「職業としての政治」というのがあった。何が書かれていたのか全く記憶にないので改めて読んでみた。マックス・ウェーバーが第一次世界大戦直後の1919年に行った講演である。フランス、イギリス、アメリカそしてドイツの事例を示しながら、政党政治が育ち、議会制民主主義が成立する過程などを踏まえて、政治とはいかなるものであるかを説いている。その冒頭部分で「政治とは、国家相互の間であれ、国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」と言い切っている。更に読み進めると政治家に求められる資質として、情熱、責任感、判断力があげられ、特に判断力にとって決定的に重要なことは、「事物と人間に対して距離を置いて見ることである」と説いている。このことは、政治がその背後に必ず正当化された暴力装置をもって権力を行使するという属性を有するものである以上、心情的な倫理とは常に緊張関係を保ち続けなければならないという議論につながってくる。政治を天職とする人間であるためには、「世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ない」と結んでいる。政治には金がかかるというような話は出てこなかったが、政治が地域の名望家の手から政党実務担当者、経験者の手に移っていく過程では、政党活動を広げるためのマシーンが有効に機能し、資金集めにも貢献したというような記述もあった。政治資金集めにはどこの政治家も熱心なようだから、一般にどこの国でも政治には金がかかるのもののようだ。いずれにしても、ウェーバーの指摘を待つまでもなく、政治と権力は切り離せないものであり、職業政治家は情熱、責任感、判断力を備えた指導者でなければなない。職業として政治を選択した以上、権力の行使は決められたプロセスに従って、堂々と行うべきである。選挙民から見え難い形で権力を行使し、政治資金を調達するようなことは好ましいことではない。</summary>
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<![CDATA[<div>政治には金がかかると言われる。そう言われる中で政治を目指して苦労をしている人たちが沢山いる。素直に考えればそれだけわが国には国家国民のために貢献することを使命と考えて、日々政治活動に励んでいる人たちがいるということになるのだろう。金銭には代えられない達成感があるのかもしれない。確かに選挙に当選した人たちの映像を見ているとそういう雰囲気が伝わってくる。当選した本人だけでなく、支援者の喜びようも相当なものだ。しかし選挙に勝つことは職業政治家としてのスタートに過ぎない、はずだ。政治家を受験生に例えるのは失礼かもしれないが、受験にも金がかかるし、目指す大学に合格したときの達成感にも似たような雰囲気を感じる。大学生になって、より高度な学問を身につけるのか、資格の取得を目指すのか、学生生活を満喫するのか、いろいろあるだろう。政治家の場合には公約の実現ということになるのだろうか。<br /><br />このところ政治と金に関する話題がマスコミを賑わせている。政治に金がかかるというのは選挙のときに限らない。政策の提言、選挙民の意向把握、政治動向に関する情報収集などのためにはそれなりの経費がかかる。それだけの経費をかけてする政治という職業は一体どのようなものなのだろうか。昔学生の頃読んだ本の中に確か「職業としての政治」というのがあった。何が書かれていたのか全く記憶にないので改めて読んでみた。マックス・ウェーバーが第一次世界大戦直後の1919年に行った講演である。フランス、イギリス、アメリカそしてドイツの事例を示しながら、政党政治が育ち、議会制民主主義が成立する過程などを踏まえて、政治とはいかなるものであるかを説いている。その冒頭部分で「政治とは、国家相互の間であれ、国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」と言い切っている。更に読み進めると政治家に求められる資質として、情熱、責任感、判断力があげられ、特に判断力にとって決定的に重要なことは、「事物と人間に対して距離を置いて見ることである」と説いている。このことは、政治がその背後に必ず正当化された暴力装置をもって権力を行使するという属性を有するものである以上、心情的な倫理とは常に緊張関係を保ち続けなければならないという議論につながってくる。政治を天職とする人間であるためには、「世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ない」と結んでいる。<br /><br />政治には金がかかるというような話は出てこなかったが、政治が地域の名望家の手から政党実務担当者、経験者の手に移っていく過程では、政党活動を広げるためのマシーンが有効に機能し、資金集めにも貢献したというような記述もあった。政治資金集めにはどこの政治家も熱心なようだから、一般にどこの国でも政治には金がかかるのもののようだ。いずれにしても、ウェーバーの指摘を待つまでもなく、政治と権力は切り離せないものであり、職業政治家は情熱、責任感、判断力を備えた指導者でなければなない。職業として政治を選択した以上、権力の行使は決められたプロセスに従って、堂々と行うべきである。選挙民から見え難い形で権力を行使し、政治資金を調達するようなことは好ましいことではない。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.29</title>
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		<published>2010-01-12T09:50:02+09:00</published>
		<updated>2010-01-12T09:50:41+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">平成22年度の予算編成は、報道されたように、例年とはかなり様変わりしたものとなった。毎年繰り返されてきた年末の恒例行事ではあるが、中央官庁、特に公共事業予算を多く抱える省庁への陳情の景観が一変した。ロビーや喫茶室が閑散としている。自民党本部と違って民主党本部には人の列。といっても予算時期の陳情団にしてはかなり控えめだ。地方の陳情は、民主党の県連を通じて、幹事長室が一手に引き受ける仕組みになったというから、こういうことになるのかもしれない。だとすると、これまで一年で最も忙しかったはずの自治体の東京事務所には何か変化があったのだろうか。というより、本来、自治体の東京事務所はどういう仕事を担当する組織なのだろう。どこの自治体にも共通した組織だから、恐らくその設置や業務に関する規定はかなり類似したものになっているのではないか。であればその代表格ということで、大阪府東京事務所規程という訓令を検索してみた。第二条に所管事項という規定がある。第二条　事務所は、本府と国会、内閣、各省庁その他関係機関等との連絡調整を強化し、本府の行政運営を促進するため次に掲げる事項を所管する。一　本庁からの指示事項の処理に関すること。二　国会、内閣、各省庁その他関係機関等との連絡調整に関すること。三　府政に関連のある情報の収集及び発信に関すること。四　企業等の誘致に関すること。五　出張者の用務に対する協力に関すること。(平一一訓令二・平一九訓令五・一部改正)この規定を読んで東京事務所がどういう仕事を担当する組織なのかイメージできる人はいない。少なくともお役所の関係者以外では理解できない。そこで大阪府のホームページを調べると東京事務所が政策企画部に所属し、主な業務として・情報収集・情報発信及び連絡調整・国の施策並びに予算に関する要望活動の支援等・栄典等その他の事務・企業誘致等の推進・情報発信を担当しているということが分かる。このうち予算、栄典というのは、元の訓令には明記されていないが、業務内容は国に対する陳情である。直接東京事務所の職員が出向くこともあるかもしれないが、多くの場合、本府出張者のアポをとり、会見の段取りをアレンジするということになるのではないか。最後に情報発信とあるが、東京事務所が自前のWebsiteを運営しているということではない。情報発信の専門要員がいて、例えば、観光やイベントの案内をするとか、アンテナショップの運営に関わっているということでもないようだ。具体的な業務内容ははっきりしない。一般にどこの東京事務所長も、組織の中では、かなり重要なポストとして位置づけられている。それだけ国への陳情が重視されてきたということだ。確かに民主党の陳情処理システムは変わったが、今後とも変わらないということではないし、仮に大きく変わることがないとしても、岡山県知事のように今後とも中央官庁とのパイプの維持が重要だという自治体の首長もいる。いずれにしても、陳情の拠点的な意味合いの強かった東京事務所のあり方を情報発信、情報交流にウェートをおいた運営にシフトさせる時期に来ていると言えるかもしれない。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/">
<![CDATA[<div>平成22年度の予算編成は、報道されたように、例年とはかなり様変わりしたものとなった。毎年繰り返されてきた年末の恒例行事ではあるが、中央官庁、特に公共事業予算を多く抱える省庁への陳情の景観が一変した。ロビーや喫茶室が閑散としている。自民党本部と違って民主党本部には人の列。といっても予算時期の陳情団にしてはかなり控えめだ。地方の陳情は、民主党の県連を通じて、幹事長室が一手に引き受ける仕組みになったというから、こういうことになるのかもしれない。<br /><br />だとすると、これまで一年で最も忙しかったはずの自治体の東京事務所には何か変化があったのだろうか。というより、本来、自治体の東京事務所はどういう仕事を担当する組織なのだろう。どこの自治体にも共通した組織だから、恐らくその設置や業務に関する規定はかなり類似したものになっているのではないか。であればその代表格ということで、大阪府東京事務所規程という訓令を検索してみた。第二条に所管事項という規定がある。<br />第二条　事務所は、本府と国会、内閣、各省庁その他関係機関等との連絡調整を強化し、本府の行政運営を促進するため次に掲げる事項を所管する。<br />一　本庁からの指示事項の処理に関すること。<br />二　国会、内閣、各省庁その他関係機関等との連絡調整に関すること。<br />三　府政に関連のある情報の収集及び発信に関すること。<br />四　企業等の誘致に関すること。<br />五　出張者の用務に対する協力に関すること。<br />(平一一訓令二・平一九訓令五・一部改正)<br /><br />この規定を読んで東京事務所がどういう仕事を担当する組織なのかイメージできる人はいない。少なくともお役所の関係者以外では理解できない。そこで大阪府のホームページを調べると東京事務所が政策企画部に所属し、主な業務として<br />・情報収集・情報発信及び連絡調整<br />・国の施策並びに予算に関する要望活動の支援等<br />・栄典等その他の事務<br />・企業誘致等の推進<br />・情報発信<br />を担当しているということが分かる。このうち予算、栄典というのは、元の訓令には明記されていないが、業務内容は国に対する陳情である。直接東京事務所の職員が出向くこともあるかもしれないが、多くの場合、本府出張者のアポをとり、会見の段取りをアレンジするということになるのではないか。最後に情報発信とあるが、東京事務所が自前のWebsiteを運営しているということではない。情報発信の専門要員がいて、例えば、観光やイベントの案内をするとか、アンテナショップの運営に関わっているということでもないようだ。具体的な業務内容ははっきりしない。<br /><br />一般にどこの東京事務所長も、組織の中では、かなり重要なポストとして位置づけられている。それだけ国への陳情が重視されてきたということだ。確かに民主党の陳情処理システムは変わったが、今後とも変わらないということではないし、仮に大きく変わることがないとしても、岡山県知事のように今後とも中央官庁とのパイプの維持が重要だという自治体の首長もいる。いずれにしても、陳情の拠点的な意味合いの強かった東京事務所のあり方を情報発信、情報交流にウェートをおいた運営にシフトさせる時期に来ていると言えるかもしれない。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.28</title>
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		<published>2010-01-04T09:46:04+09:00</published>
		<updated>2010-01-04T09:46:04+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">例年のことながら、新年を迎えて3日間は朝からお酒が飲める。年賀状を読む。箱根駅伝を観戦する。東洋大学の柏原といういわき総合高校出身の選手がまた昨年のような活躍をするのかどうか、注目していた。期待通りの柏原の走り、その走りを生かして東洋大学が優勝。駒澤大学が実力校らしく復路優勝を飾って準優勝。過去最多の優勝回数を誇る中央大学が４位に入った。東京農業大学が久し振りにシード権を確保する。城西大学は、昨年の悲劇から一転、最終走者がガッツポーズでテープを切り、関係者一同始めてのシード権獲得に興奮。2日間楽しませてもらった。箱根駅伝が終わると特段の予定もないので、思いつきで、論語を開いてみた。述而第七、子曰。述而不作。信而好古。という書き出し。自分が人に説いていることは、自分が個人的に考え出したことではない。古くから言い伝えられていることの中に真実があるはずだと信じて、説いているのだ。というような趣旨だという。そうだったのか、論語に出てくる孔子の言葉は、すべて孔子自身の創作というわけではなかったのだ。その暫く後に（174段）、子曰。蓋有不知而作之者。我無是也。多聞。択其善者而従之。多見而識之知之。次也。この段の読み方については古くから中国でもいろいろな説を唱える人があるという。ここでは、わが国東洋史学の権威として知られる宮崎市定先生の説に従うことにしたい。先生の説によれば、不知而作というのは古い時代の慣用句だという。世間には「自覚せずしてしかも立派な成績を挙げている者がある」という考えもあるようだが、自分はそういうタイプの人間ではない。先輩のいうことを沢山聞いて、その中から自分なりに善いと思う考えを選んでそれを自分のものとして身につける。いろいろ見聞きしたことをそのまま自分の考えとしてしまうのは、次善の姿勢というべきだろう。というような解釈だ。正月のテレビには箱根駅伝だけでなく多くのスポーツ選手が登場する。冬季オリンピックの関係だったり、シーズンオフとの関係だったりということがあるのだろう。それにしてもこのところ日本のスポーツ界は、少子高齢化などと言われる中で若い選手の活躍が目立つ。特にゴルフの石川遼選手は一人で数百億円の経済効果を生んだという試算さえある。彼は、テレビの対談番組で、一緒にプレーした先輩の技術で少しでも気になるものがあれば試してみる、それが自分に合えば自分のものとして身につける、というようなことを話していた。18歳になったばかりのプロゴルファーが、孔子の教えを実践していると言ってもいいかもしれない。プロのスポーツ選手には大体コーチというその道の専門家が指導に当たる。恐らく何でもコーチの言いなりになるということでは選手として大成しないのではないか。遼君の話を聞いていてそう思った。スポーツに限らず、指導者の果たす役割は確かに大きい。しかしそれ以上に、先人の教えの中から何を選択し、自分のものとして身につけるかということが大切だ。囲碁や将棋の世界でも若い人の活躍が目立つ。囲碁では昨年史上最年少の20歳でタイトル保持者となった井山名人がスポーツ選手とも通ずるような話をしている。先人に学びながら、その上に自分の発想を積み上げる。そこに楽しさがある。そういえば、日本の政界も随分若返った。少なくとも民主党の新人議員はかなり若くなった。彼らに対しては先輩がいろいろ指導や教育を施しているのだろうが、その先に自分の考え方で活躍する道が開けるかどうか、不安なしとしない。個性を発揮することが常に政治家として好ましいことであるとは言えないが、少なくとも選挙民の期待に背くような、没個性の政治家になってもらっては困る。</summary>
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<![CDATA[<div>例年のことながら、新年を迎えて3日間は朝からお酒が飲める。年賀状を読む。箱根駅伝を観戦する。東洋大学の柏原といういわき総合高校出身の選手がまた昨年のような活躍をするのかどうか、注目していた。期待通りの柏原の走り、その走りを生かして東洋大学が優勝。駒澤大学が実力校らしく復路優勝を飾って準優勝。過去最多の優勝回数を誇る中央大学が４位に入った。東京農業大学が久し振りにシード権を確保する。城西大学は、昨年の悲劇から一転、最終走者がガッツポーズでテープを切り、関係者一同始めてのシード権獲得に興奮。2日間楽しませてもらった。<br /><br />箱根駅伝が終わると特段の予定もないので、思いつきで、論語を開いてみた。述而第七、子曰。述而不作。信而好古。という書き出し。自分が人に説いていることは、自分が個人的に考え出したことではない。古くから言い伝えられていることの中に真実があるはずだと信じて、説いているのだ。というような趣旨だという。そうだったのか、論語に出てくる孔子の言葉は、すべて孔子自身の創作というわけではなかったのだ。その暫く後に（174段）、子曰。蓋有不知而作之者。我無是也。多聞。択其善者而従之。多見而識之知之。次也。この段の読み方については古くから中国でもいろいろな説を唱える人があるという。ここでは、わが国東洋史学の権威として知られる宮崎市定先生の説に従うことにしたい。先生の説によれば、不知而作というのは古い時代の慣用句だという。世間には「自覚せずしてしかも立派な成績を挙げている者がある」という考えもあるようだが、自分はそういうタイプの人間ではない。先輩のいうことを沢山聞いて、その中から自分なりに善いと思う考えを選んでそれを自分のものとして身につける。いろいろ見聞きしたことをそのまま自分の考えとしてしまうのは、次善の姿勢というべきだろう。というような解釈だ。<br /><br />正月のテレビには箱根駅伝だけでなく多くのスポーツ選手が登場する。冬季オリンピックの関係だったり、シーズンオフとの関係だったりということがあるのだろう。それにしてもこのところ日本のスポーツ界は、少子高齢化などと言われる中で若い選手の活躍が目立つ。特にゴルフの石川遼選手は一人で数百億円の経済効果を生んだという試算さえある。彼は、テレビの対談番組で、一緒にプレーした先輩の技術で少しでも気になるものがあれば試してみる、それが自分に合えば自分のものとして身につける、というようなことを話していた。18歳になったばかりのプロゴルファーが、孔子の教えを実践していると言ってもいいかもしれない。プロのスポーツ選手には大体コーチというその道の専門家が指導に当たる。恐らく何でもコーチの言いなりになるということでは選手として大成しないのではないか。遼君の話を聞いていてそう思った。<br /><br />スポーツに限らず、指導者の果たす役割は確かに大きい。しかしそれ以上に、先人の教えの中から何を選択し、自分のものとして身につけるかということが大切だ。囲碁や将棋の世界でも若い人の活躍が目立つ。囲碁では昨年史上最年少の20歳でタイトル保持者となった井山名人がスポーツ選手とも通ずるような話をしている。先人に学びながら、その上に自分の発想を積み上げる。そこに楽しさがある。<br /><br />そういえば、日本の政界も随分若返った。少なくとも民主党の新人議員はかなり若くなった。彼らに対しては先輩がいろいろ指導や教育を施しているのだろうが、その先に自分の考え方で活躍する道が開けるかどうか、不安なしとしない。個性を発揮することが常に政治家として好ましいことであるとは言えないが、少なくとも選挙民の期待に背くような、没個性の政治家になってもらっては困る。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.27</title>
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		<published>2009-12-21T09:41:59+09:00</published>
		<updated>2009-12-21T09:41:59+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">今年も残り少なくなってきたところで、月並みにこの1年を振り返えりながら、改めて行政広報というものを考えてみたい。今年は年の初めから政権交代と経済対策の話題がマスコミを賑わせていた。そして政権交代は実現したが、残念ながら経済は相変わらずあまりぱっとしない。今年のように大きな政治的変化と経済的停滞が同居するときにはどういうわけか行政広報の影が薄くなってくるようだ。小泉構造改革の頃と通ずるところがある。考えてみれば当然のことかもしれない。郵政改革が選挙の争点になれば、この問題に関連した広報は打てない。まして今年のように、マニフェストを掲げた選挙戦で政権交代があるのかどうか注目されている中では、行政広報も自ずとお知らせ広報的なものが大きなウェートを占めざるを得ない。中央政府は勿論のこと地方自治体といえども政権政党がどうなるのか見極めるまでは、行政の方向性を明示するような広報は控えざるを得ない。加えて、景気が停滞する中で広報予算は節約の対象になり易い経費だ。その一方で政権交代が実現する過程では、各政党のマニフェストを中心にして政党の政策をマスコミが詳細に紹介してくれる。公共事業や少子化対策だけでなく、不況に伴うセーフティーネット事業などについても解説付きで報道してくれる。政権交代後もマスコミがこぞって新政権の施策を紹介してくれるから、敢えて政府や自治体が費用をかけて広報するまでもないという状況になっている。事業仕分けなど編集もしないリアルタイムの映像を流すだけで大変な広報効果をもたらしたではないか。ただ、新政権が発足して100日が経過したとはいえ、国民や住民の生活に直接関係してくるような施策は今のところまだ具体化されていない。日本郵政の経営陣が変わったというくらいで子供手当ても有料道路の話も前政権のときとまったく変わっていない。マスコミも補正予算が組まれ、新年度予算が議論されている間は、政権交代に伴う施策の変更の様子をいろいろ報道してくれるが、一旦補正予算が動き出し、新年度予算が成立してしまうと、必ずしもこれまでと同じように報道してくれるわけではない。これからが行政広報の正念場だといっても過言ではない。元々行政広報は行政を円滑に運営するための環境整備が主目的であるから、マスコミの報道とは異質のものだ。たとえば子供手当てに所得制限を設けるか否か、という報道はあっても、実際に所得制限をするということで決着したとき、所得の証明手続きや給与所得以外の所得の取り扱い、兼職はどう扱うかなどということまで報道に期待することはできない。どうしても直接行政からの情報提供が必要になってくる。のみならず目玉施策の一つである子供手当ての支給効果を考えれば、受給者に対してその趣旨に沿った支出を促すような広報も欠かせないはずだ。行政刷新会議の広報に関連する事業仕分け作業を見ていていささか心配になったのは、広報には知らせるべきことを知らせるという以上の役割が期待できないというような議論が多かったことだ。裁判員制度や総選挙の広報については特に厳しく、広報によって行動が変わることはないのではないかというような議論だった。確かに指摘されたような側面がないとはいえない。ただ政権交代によって新施策を打ち出そうというときには、少なくともただ給付事務が滞りなく行われたとか、知らせるべき人には可能な限り知らせる努力をした、ということで事足れりとするのではなく、新しい施策の目的、意義の周知を図り、協力を求めるための広報に手を抜くことがないようお願いしたい。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/">
<![CDATA[<div>今年も残り少なくなってきたところで、月並みにこの1年を振り返えりながら、改めて行政広報というものを考えてみたい。今年は年の初めから政権交代と経済対策の話題がマスコミを賑わせていた。そして政権交代は実現したが、残念ながら経済は相変わらずあまりぱっとしない。今年のように大きな政治的変化と経済的停滞が同居するときにはどういうわけか行政広報の影が薄くなってくるようだ。小泉構造改革の頃と通ずるところがある。考えてみれば当然のことかもしれない。郵政改革が選挙の争点になれば、この問題に関連した広報は打てない。まして今年のように、マニフェストを掲げた選挙戦で政権交代があるのかどうか注目されている中では、行政広報も自ずとお知らせ広報的なものが大きなウェートを占めざるを得ない。中央政府は勿論のこと地方自治体といえども政権政党がどうなるのか見極めるまでは、行政の方向性を明示するような広報は控えざるを得ない。加えて、景気が停滞する中で広報予算は節約の対象になり易い経費だ。<br /><br />その一方で政権交代が実現する過程では、各政党のマニフェストを中心にして政党の政策をマスコミが詳細に紹介してくれる。公共事業や少子化対策だけでなく、不況に伴うセーフティーネット事業などについても解説付きで報道してくれる。政権交代後もマスコミがこぞって新政権の施策を紹介してくれるから、敢えて政府や自治体が費用をかけて広報するまでもないという状況になっている。事業仕分けなど編集もしないリアルタイムの映像を流すだけで大変な広報効果をもたらしたではないか。ただ、新政権が発足して100日が経過したとはいえ、国民や住民の生活に直接関係してくるような施策は今のところまだ具体化されていない。日本郵政の経営陣が変わったというくらいで子供手当ても有料道路の話も前政権のときとまったく変わっていない。マスコミも補正予算が組まれ、新年度予算が議論されている間は、政権交代に伴う施策の変更の様子をいろいろ報道してくれるが、一旦補正予算が動き出し、新年度予算が成立してしまうと、必ずしもこれまでと同じように報道してくれるわけではない。これからが行政広報の正念場だといっても過言ではない。<br /><br />元々行政広報は行政を円滑に運営するための環境整備が主目的であるから、マスコミの報道とは異質のものだ。たとえば子供手当てに所得制限を設けるか否か、という報道はあっても、実際に所得制限をするということで決着したとき、所得の証明手続きや給与所得以外の所得の取り扱い、兼職はどう扱うかなどということまで報道に期待することはできない。どうしても直接行政からの情報提供が必要になってくる。のみならず目玉施策の一つである子供手当ての支給効果を考えれば、受給者に対してその趣旨に沿った支出を促すような広報も欠かせないはずだ。<br /><br />行政刷新会議の広報に関連する事業仕分け作業を見ていていささか心配になったのは、広報には知らせるべきことを知らせるという以上の役割が期待できないというような議論が多かったことだ。裁判員制度や総選挙の広報については特に厳しく、広報によって行動が変わることはないのではないかというような議論だった。確かに指摘されたような側面がないとはいえない。ただ政権交代によって新施策を打ち出そうというときには、少なくともただ給付事務が滞りなく行われたとか、知らせるべき人には可能な限り知らせる努力をした、ということで事足れりとするのではなく、新しい施策の目的、意義の周知を図り、協力を求めるための広報に手を抜くことがないようお願いしたい。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.26</title>
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		<published>2009-12-11T10:00:00+09:00</published>
		<updated>2009-12-11T12:37:54+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">東北は最上川沿いの小村に生まれ育った母は、女学校を経て看護婦の資格を取得し、1年ほど地方の病院で勤務していたが、東京に憧れて上京し、国立大学の付属病院に職場を得ることができた。（大正生まれの母は、8年ほど前に他界したが、どうしても看護師という言葉が馴染まなかったようで、最後に世話になった病院でも看護婦さんと呼んでいた。ここではその呼称を使うことをお許しいただきたい。）大学の体育祭で怪我をした学生をからかいながら治療した話や軍人の患者に憧れた話、大邸宅に往診して戸惑った話など、いろいろ聞かされた。病院の近くにある看護婦の寄宿舎では、医師に渾名をつけて笑い転げたり、全国から集まってくる看護婦の訛りをお互いにひやかしあったり、チャルメラの音を聴いては寄宿舎の二階から紐を垂らしてラーメンを注文したことなどを楽しげに話していた。病院での勤務には辛いことも少なくなかったと思うが、戦後の厳しい時代を子育てに追われながら過ごした母にとっては、看護婦時代の思い出がすべて懐かしく、楽しいものばかりだったのかもしれない。夫（私の父）に先立たれてから3年ほどを経て母も体調を崩し、入院することになった。後から知らされたところによると肺がんの末期だったという。意識が半ば途切れかかっていた最後の日、口元を動かしているように見えたので病院の売店からアイスクリームを買って少しだけ口の中に入れてやると、嬉しそうに顔を緩ませた。間違いなく微笑んでくれた、と今でもそう思っている。それから半時ほども経っただろうか、それほど苦しそうな表情も見せず、それまでより幾分大きめに息をするとそこで呼吸が停止した。傍に立ててあるモニターを見るとそれまで波を刻んでいた画像が真横に一直線になっている。ナースセンターに連絡をすると直ぐに医師が駆けつけてくれた。家族に連絡をとるようにと言いながら医師が蘇生を施しているのをぼんやりと眺めていた。モニターには直線だけが写っている。ふと我に返って「先生、ありがとうございます。もう結構です。楽にさせてやってください。」と伝えた。母は昔から狭心症だとか消化器系にしこりがあるような気がすると訴えては入院することが何度かあった。娘（私の妹）を癌で亡くしたせいか、いつも癌を怖れていた。しかし呼吸器に不具合がありそうな話など一度も聞いたことがなかった。看護婦だったこともあって健康にはかなり気を使っているようにみえた。70歳を超える頃から膝が痛むと言っては日課のように整形外科に通っていたが、結局癌で命を落とすことになった。考えてみると我が家は母だけでなく父も妹も私自身も随分健康保険のお世話になっている。私などはこれまで3度も冠動脈のカテーテル治療を受けている。最近、鹿児島県の阿久根市長が自身のブログに「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰（とうた）された機能障害を持ったのを生き残らせている。」と書いたことが市民の反発をかっているという報道を目にした。高度医療とか機能障害の具体的な内容はよく分からないが、狭心症の症状が出たときなどはとても辛い。多分一昔前であれば私などもうとっくに「淘汰」されていたに違いない。医療の進歩には感謝するばかりだ。再生医療とか臓器移植のように難しい課題を抱える分野もあるようだが、本人に少しでも生きていたいという意思があるときは勿論のこと、家族を始め周囲の人たちが何とかこの人により健康な人に近い生活を送らせてあげたいと願っているとき、医療や介護、機能回復のための施設は、電気、水道、交通などと並ぶ必須の社会基盤（Infrastructure）であることを痛感する。子供が凶悪事件などに遭ったとき学校で命の大切さを訴える先生をテレビなどで見かけるが、言葉だけではなかなか伝わらない。プッツンして凶行に及ぶような人を躊躇させるだけの力はないように思う。何か工夫をして介護やリハビリなどの仕事に直接、間接に携わるような体験ができる場を提供してやる方が有効かもしれない。阿久根市長にもそういう機会を提供してやったら如何か。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/">
<![CDATA[<div>東北は最上川沿いの小村に生まれ育った母は、女学校を経て看護婦の資格を取得し、1年ほど地方の病院で勤務していたが、東京に憧れて上京し、国立大学の付属病院に職場を得ることができた。（大正生まれの母は、8年ほど前に他界したが、どうしても看護師という言葉が馴染まなかったようで、最後に世話になった病院でも看護婦さんと呼んでいた。ここではその呼称を使うことをお許しいただきたい。）大学の体育祭で怪我をした学生をからかいながら治療した話や軍人の患者に憧れた話、大邸宅に往診して戸惑った話など、いろいろ聞かされた。病院の近くにある看護婦の寄宿舎では、医師に渾名をつけて笑い転げたり、全国から集まってくる看護婦の訛りをお互いにひやかしあったり、チャルメラの音を聴いては寄宿舎の二階から紐を垂らしてラーメンを注文したことなどを楽しげに話していた。<br /><br />病院での勤務には辛いことも少なくなかったと思うが、戦後の厳しい時代を子育てに追われながら過ごした母にとっては、看護婦時代の思い出がすべて懐かしく、楽しいものばかりだったのかもしれない。夫（私の父）に先立たれてから3年ほどを経て母も体調を崩し、入院することになった。後から知らされたところによると肺がんの末期だったという。意識が半ば途切れかかっていた最後の日、口元を動かしているように見えたので病院の売店からアイスクリームを買って少しだけ口の中に入れてやると、嬉しそうに顔を緩ませた。間違いなく微笑んでくれた、と今でもそう思っている。それから半時ほども経っただろうか、それほど苦しそうな表情も見せず、それまでより幾分大きめに息をするとそこで呼吸が停止した。傍に立ててあるモニターを見るとそれまで波を刻んでいた画像が真横に一直線になっている。ナースセンターに連絡をすると直ぐに医師が駆けつけてくれた。家族に連絡をとるようにと言いながら医師が蘇生を施しているのをぼんやりと眺めていた。モニターには直線だけが写っている。ふと我に返って「先生、ありがとうございます。もう結構です。楽にさせてやってください。」と伝えた。<br /><br />母は昔から狭心症だとか消化器系にしこりがあるような気がすると訴えては入院することが何度かあった。娘（私の妹）を癌で亡くしたせいか、いつも癌を怖れていた。しかし呼吸器に不具合がありそうな話など一度も聞いたことがなかった。看護婦だったこともあって健康にはかなり気を使っているようにみえた。70歳を超える頃から膝が痛むと言っては日課のように整形外科に通っていたが、結局癌で命を落とすことになった。考えてみると我が家は母だけでなく父も妹も私自身も随分健康保険のお世話になっている。私などはこれまで3度も冠動脈のカテーテル治療を受けている。<br /><br />最近、鹿児島県の阿久根市長が自身のブログに「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰（とうた）された機能障害を持ったのを生き残らせている。」と書いたことが市民の反発をかっているという報道を目にした。高度医療とか機能障害の具体的な内容はよく分からないが、狭心症の症状が出たときなどはとても辛い。多分一昔前であれば私などもうとっくに「淘汰」されていたに違いない。医療の進歩には感謝するばかりだ。再生医療とか臓器移植のように難しい課題を抱える分野もあるようだが、本人に少しでも生きていたいという意思があるときは勿論のこと、家族を始め周囲の人たちが何とかこの人により健康な人に近い生活を送らせてあげたいと願っているとき、医療や介護、機能回復のための施設は、電気、水道、交通などと並ぶ必須の社会基盤（Infrastructure）であることを痛感する。子供が凶悪事件などに遭ったとき学校で命の大切さを訴える先生をテレビなどで見かけるが、言葉だけではなかなか伝わらない。プッツンして凶行に及ぶような人を躊躇させるだけの力はないように思う。何か工夫をして介護やリハビリなどの仕事に直接、間接に携わるような体験ができる場を提供してやる方が有効かもしれない。阿久根市長にもそういう機会を提供してやったら如何か。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.25</title>
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		<published>2009-12-01T10:10:06+09:00</published>
		<updated>2009-12-01T10:10:06+09:00</updated>
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		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">国家公務員は退職後においても、在職中に知り得た秘密について守秘義務を負うほか、退職前の一定期間に勤務したポストと関係のある企業には一定期間就職することができないという国家公務員法上の制約が課されている。小泉内閣の頃から郵政民営化問題の議論の過程で、特殊法人への再就職も厳しくなり、民主党からの批判などもあって、国から補助金や交付金などの助成を受ける公益法人への再就職も見直されることとなった。勿論、国家公務員にも職業選択の自由は保障されているわけだから、再就職の道を閉ざすような制約は憲法違反であり、許されない。いわゆる天下りと言われる再就職は、その再就職先と官庁との間に何らかの利害関係があると見られる場合に議論となる。利害関係といっても直接業務を請け負ったり、助成金を受けたり、物品やサービスを納入するということであれば分かり易いが、官庁との利害関係となるとこれだけでは済まない。物品や金融商品の安全性、流通、販売方法などにはいろいろな規制があり、規制の定め方によっては企業活動に大きな影響を与える。公共事業を伴う大型のプロジェクトには地域の多種多様な事業者が関係してくる。加えて官庁は独立行政法人や公益法人だけでなく各種の事業主体に許可や届出の義務を課したり、指導、監督する権限をもっている。民主党はすべての陳情を党が一手に引き受けるというが、事業者間、地域間で整合性のある陳情として党がどの程度まで調整するかという難しい問題が残りそうだ。自民党時代には、政務調査会が関係省庁の意見を徴しながら調整していたが、民主党はこれを廃止してしまったから、恐らく受けた陳情を実現可能な具体策としてまとめるのは政府の役割ということになるだろう。政府側に大臣、副大臣、政務官がいるとはいえ、陳情団との関係で党と政府が齟齬を来たすようなことはないだろうか。いずれにしても政治主導の行政運営が行われるということになれば、事業計画や制度設計に関連して官僚が企業体と癒着する余地は少なくなるだろう。政府調達なども競争入札が徹底されれば、談合や情報漏えいのような犯罪行為は問題外として、官僚OBの受け入れがとやかく論じられることはなくなってくるのではないか。問題は、官庁の権限が強く及ぶ事業体への天下りである。その典型が独立行政法人とか特殊法人あるいは認可法人と呼ばれる法律で設立された組織である。従来は法律で設立され、税金が投入される組織だからということで官僚のOBが運営責任を負う形になっていたが、昨今そういう組織だからこそ官僚OBには任せておけないという議論になってきた。考えようによっては当然のことかもしれない。事業内容が法律によって規定され、官庁の指導、監督が厳しいという前提であれば、そのような組織には経営感覚をもって効率的な業務運営に手馴れた人材を当てるべきであって、必ずしも官僚OBが適しているとは言えない。むしろ官僚OBがいることによって指導、監督が甘くなったり、任せきりになってしまう可能性がある。独立行政法人などでなくとも官庁の権限が強く及ぶ業態に官僚OBを再就職させることには問題がありそうだ。天下りの定義を、官庁が再就職の斡旋に関与するか否かで使い分けることには疑問がある。官僚OBの再就職を形式的に一律に規制するのではなく、むしろ事業内容を精査して積極的に国家公務員の再就職や転職を斡旋する機関があってもいいのではないか。人件費の削減を実現するためにも有益だと思うがどうだろう。ここ2ヶ月ほどの官報をみていると幹部の異動が殆ど見当たらない。前政権の末期には幹部の異動が目立ってマスコミの話題にもなったが、その体制をいずれ見直すときを睨みながら政治主導の再就職先を模索しているのだろうか。</summary>
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<![CDATA[<div>国家公務員は退職後においても、在職中に知り得た秘密について守秘義務を負うほか、退職前の一定期間に勤務したポストと関係のある企業には一定期間就職することができないという国家公務員法上の制約が課されている。小泉内閣の頃から郵政民営化問題の議論の過程で、特殊法人への再就職も厳しくなり、民主党からの批判などもあって、国から補助金や交付金などの助成を受ける公益法人への再就職も見直されることとなった。勿論、国家公務員にも職業選択の自由は保障されているわけだから、再就職の道を閉ざすような制約は憲法違反であり、許されない。いわゆる天下りと言われる再就職は、その再就職先と官庁との間に何らかの利害関係があると見られる場合に議論となる。利害関係といっても直接業務を請け負ったり、助成金を受けたり、物品やサービスを納入するということであれば分かり易いが、官庁との利害関係となるとこれだけでは済まない。物品や金融商品の安全性、流通、販売方法などにはいろいろな規制があり、規制の定め方によっては企業活動に大きな影響を与える。公共事業を伴う大型のプロジェクトには地域の多種多様な事業者が関係してくる。加えて官庁は独立行政法人や公益法人だけでなく各種の事業主体に許可や届出の義務を課したり、指導、監督する権限をもっている。<br /><br />民主党はすべての陳情を党が一手に引き受けるというが、事業者間、地域間で整合性のある陳情として党がどの程度まで調整するかという難しい問題が残りそうだ。自民党時代には、政務調査会が関係省庁の意見を徴しながら調整していたが、民主党はこれを廃止してしまったから、恐らく受けた陳情を実現可能な具体策としてまとめるのは政府の役割ということになるだろう。政府側に大臣、副大臣、政務官がいるとはいえ、陳情団との関係で党と政府が齟齬を来たすようなことはないだろうか。<br /><br />いずれにしても政治主導の行政運営が行われるということになれば、事業計画や制度設計に関連して官僚が企業体と癒着する余地は少なくなるだろう。政府調達なども競争入札が徹底されれば、談合や情報漏えいのような犯罪行為は問題外として、官僚OBの受け入れがとやかく論じられることはなくなってくるのではないか。<br /><br />問題は、官庁の権限が強く及ぶ事業体への天下りである。その典型が独立行政法人とか特殊法人あるいは認可法人と呼ばれる法律で設立された組織である。従来は法律で設立され、税金が投入される組織だからということで官僚のOBが運営責任を負う形になっていたが、昨今そういう組織だからこそ官僚OBには任せておけないという議論になってきた。考えようによっては当然のことかもしれない。事業内容が法律によって規定され、官庁の指導、監督が厳しいという前提であれば、そのような組織には経営感覚をもって効率的な業務運営に手馴れた人材を当てるべきであって、必ずしも官僚OBが適しているとは言えない。むしろ官僚OBがいることによって指導、監督が甘くなったり、任せきりになってしまう可能性がある。独立行政法人などでなくとも官庁の権限が強く及ぶ業態に官僚OBを再就職させることには問題がありそうだ。<br /><br />天下りの定義を、官庁が再就職の斡旋に関与するか否かで使い分けることには疑問がある。官僚OBの再就職を形式的に一律に規制するのではなく、むしろ事業内容を精査して積極的に国家公務員の再就職や転職を斡旋する機関があってもいいのではないか。人件費の削減を実現するためにも有益だと思うがどうだろう。ここ2ヶ月ほどの官報をみていると幹部の異動が殆ど見当たらない。前政権の末期には幹部の異動が目立ってマスコミの話題にもなったが、その体制をいずれ見直すときを睨みながら政治主導の再就職先を模索しているのだろうか。</div>]]>
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		<title>広報の目 by もんじゃ郎　Vol.24</title>
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		<published>2009-11-24T09:30:00+09:00</published>
		<updated>2009-11-24T10:04:15+09:00</updated>
		<category term="Column" label="Column" />
		<author>
			<name>もんじゃ郎</name>
		</author>
		<summary type="html" xml:base="http://www.koho.or.jp/community/" xml:lang="ja">行政刷新会議の議論が、仕分け作業の公開などもあって、マスコミで取り上げられる機会が多くなった。これまで国の予算といえば、公共事業費とか社会保障費あるいは安全保障、ODA、教育というような大まかな括りで報道されることが多かったが、仕分け作業を通じてその具体的な内容の一部が分かるようになったことは確かだ。とはいえ、これだけの作業をこなすには何としても時間的な制約が厳しすぎるような気がする。事業仕分けの結論だけで予算が決まるわけではないということだが、それにしてもとりまとめというか方向付けが簡潔過ぎはしないか。少なくとも予算を10％切るか20％切るかの判断にどういう根拠があるのかすっきりしない。温暖化対策や少子化対策のように省庁間で競合する可能性のある事業の扱い方も難しい。政府広報も事業仕分けの俎上に上げられた。内閣府が政府広報として実施するもののほか、国政選挙、裁判員制度、国勢調査などに伴う広報が取り上げられた。およそ政府が国民に対して発する情報には、法令の規定に基づくもの以外に行政運営の円滑化、効率化を目的とするものが多数ある。広く国民に周知をはかり、理解を求めるとともに、参加を促す類の情報提供である。法令の規定に基づいて発信する情報は通常その情報に利害関係を有する者が知り得る状態にすればよいということから、多くの場合官報に掲載することで済まされる。各省庁が毎年作成する年次報告書などのように印刷物として刊行したり、ウェブサイトに掲載する情報もある。報道関係者には資料を作成して配布することが多い。しかしこれだけでは広く国民一般を対象とする施策や制度に関する情報提供として不十分なこともある。たとえば総選挙の場合、法令上は選挙期日の12日前までに官報で公示することになっている。実際には、総選挙ともなれば公示よりもかなり早い時期からマスコミが一斉に報道し始める上、有権者には選挙公報が配布され、葉書で通知されるから公示自体は形式的な意味しかない。それでも広報が必要かという議論がある。広報には政治に無関心な層を投票所に向かわせるだけの効果があるのかという意見がある。確かに投票率だけを考えれば広報効果は分かり難い。しかし選挙広報の重要な役割はまず投票の意思がある人に確実に投票してもらうことであり、次いで投票に行くか行かないかということとは別に、民主主義国家における選挙の意味を選挙が実施されるときに改めて考えるきっかけを提供するという役割が大きいのではないか。投票率が上がるか下がるかは基本的に政党、政策、候補者、政治の動向に負うところが大きく、広報や天候との関連を云々するのは本筋ではない。費用対効果を基本として必要経費を査定する考え方に異論はないが、数値化を図ろうとするあまり効果を単純化し過ぎないことを望みたい。国勢調査の広報にしても調査漏れを少なくすることよりは、快く協力してもらうことに重点をおいているはずだが、これもなかなか数値化には馴染まない。裁判員制度の広報にしても制度に疑問を抱いている人を説得するためというよりは、不安を感じている人から少しでもその不安を解消させることを目標としているのではないか。いよいよ事業仕分けも後半戦に入ってくる。行政刷新会議の効果で間違いなく国民の納税者意識は変化し、行政の無駄遣いに対する目が厳しくなっている。今後の更なる活動に期待したい。蛇足ではあるが、行政刷新会議のホームページをみると大臣の記者会見とワーキンググループのライブ中継情報以外は、ほとんどPDFによって構成されている。人的な制約はあると思うが、国民の期待も大きいだけに予算編成以降の刷新会議がどのようなテーマにどのような取り組みをする予定なのかといった情報を含め、ネット情報の充実を図るとともに、サイトを活用した情報の収集などにも配意することを望みたい。</summary>
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<![CDATA[<div>行政刷新会議の議論が、仕分け作業の公開などもあって、マスコミで取り上げられる機会が多くなった。これまで国の予算といえば、公共事業費とか社会保障費あるいは安全保障、ODA、教育というような大まかな括りで報道されることが多かったが、仕分け作業を通じてその具体的な内容の一部が分かるようになったことは確かだ。とはいえ、これだけの作業をこなすには何としても時間的な制約が厳しすぎるような気がする。事業仕分けの結論だけで予算が決まるわけではないということだが、それにしてもとりまとめというか方向付けが簡潔過ぎはしないか。少なくとも予算を10％切るか20％切るかの判断にどういう根拠があるのかすっきりしない。温暖化対策や少子化対策のように省庁間で競合する可能性のある事業の扱い方も難しい。<br /><br />政府広報も事業仕分けの俎上に上げられた。内閣府が政府広報として実施するもののほか、国政選挙、裁判員制度、国勢調査などに伴う広報が取り上げられた。およそ政府が国民に対して発する情報には、法令の規定に基づくもの以外に行政運営の円滑化、効率化を目的とするものが多数ある。広く国民に周知をはかり、理解を求めるとともに、参加を促す類の情報提供である。法令の規定に基づいて発信する情報は通常その情報に利害関係を有する者が知り得る状態にすればよいということから、多くの場合官報に掲載することで済まされる。各省庁が毎年作成する年次報告書などのように印刷物として刊行したり、ウェブサイトに掲載する情報もある。報道関係者には資料を作成して配布することが多い。しかしこれだけでは広く国民一般を対象とする施策や制度に関する情報提供として不十分なこともある。<br /><br />たとえば総選挙の場合、法令上は選挙期日の12日前までに官報で公示することになっている。実際には、総選挙ともなれば公示よりもかなり早い時期からマスコミが一斉に報道し始める上、有権者には選挙公報が配布され、葉書で通知されるから公示自体は形式的な意味しかない。それでも広報が必要かという議論がある。広報には政治に無関心な層を投票所に向かわせるだけの効果があるのかという意見がある。確かに投票率だけを考えれば広報効果は分かり難い。しかし選挙広報の重要な役割はまず投票の意思がある人に確実に投票してもらうことであり、次いで投票に行くか行かないかということとは別に、民主主義国家における選挙の意味を選挙が実施されるときに改めて考えるきっかけを提供するという役割が大きいのではないか。投票率が上がるか下がるかは基本的に政党、政策、候補者、政治の動向に負うところが大きく、広報や天候との関連を云々するのは本筋ではない。費用対効果を基本として必要経費を査定する考え方に異論はないが、数値化を図ろうとするあまり効果を単純化し過ぎないことを望みたい。国勢調査の広報にしても調査漏れを少なくすることよりは、快く協力してもらうことに重点をおいているはずだが、これもなかなか数値化には馴染まない。裁判員制度の広報にしても制度に疑問を抱いている人を説得するためというよりは、不安を感じている人から少しでもその不安を解消させることを目標としているのではないか。<br /><br />いよいよ事業仕分けも後半戦に入ってくる。行政刷新会議の効果で間違いなく国民の納税者意識は変化し、行政の無駄遣いに対する目が厳しくなっている。今後の更なる活動に期待したい。蛇足ではあるが、行政刷新会議のホームページをみると大臣の記者会見とワーキンググループのライブ中継情報以外は、ほとんどPDFによって構成されている。人的な制約はあると思うが、国民の期待も大きいだけに予算編成以降の刷新会議がどのようなテーマにどのような取り組みをする予定なのかといった情報を含め、ネット情報の充実を図るとともに、サイトを活用した情報の収集などにも配意することを望みたい。</div>]]>
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