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広報研究ノート その他

月刊「広報」2003年5月号初出

公的広報におけるジェンダー表現とメディア・リテラシー

フェリス女学院大学文学部教授 諸橋 泰樹

各自治体において、男女共同参画に関する条例や基本計画策定に向けての検討が行われています。それに併せて、メディアにおける男女共同参画を考えるための「公的広報のガイドライン」づくりが国や自治体で進められています。広報、とりわけ行政広報になぜ男女共同参画の視点が必要なのかを、ジェンダー(社会的・文化的につくられた性差)とメディアに詳しいフェリス女学院大学教授の諸橋泰樹さんに語っていただきました。

 

人の性別や「らしさ」を決定づける家庭、学校、情報環境

人間には、二つの性別があるといわれています。一つは、医学的、生物学的、動物学的性別のことで、学術用語で「sex」といいます。もう一つは社会的・文化的性別――「社会的・文化的につくられた性差」ともいわれていますが――これを一般的に、「ジェンダー(gender)」と呼んでいます。1970年代ごろから、性科学や性心理学、家族学や文化人類学、あるいは医学の分野でも、人間の性別をとらえる場合に、この二つの側面から考えていこうというのが当たり前になってきました。

あらためてジェンダーの観点で世の中の存在様式をみてみると、面白いことが分かります。ジェンダーとしてよく指摘されるものに、いわゆる「男らしさ」「女らしさ」というのがありますが、実はこの「男らしさ」「女らしさ」というのは、国や時代によってその様式がまったく違うのです。例えばロシアでは、大型バスの運転手や医師が「女らしい」仕事とされていますし、キルト地方における「男らしい」正規の服装はスカートをはくことですし。また、日本でいえば、江戸時代は、子育てや病人の看病は男がするものと思われていました。

このように「男らしさ」「女らしさ」というのは地域や時代や文化によって相対的なものであり、普遍的なものではない。国や時代が違えばその存在様式も違ってくるものなのです。

では、そのジェンダーが私たち人間をどれくらい規定しているかというと、実は、身体的にもって生まれた性別より大きな影響力があるということが分かってきました。

先の70年代の話になりますが、ジェンダーの視点が生まれたきっかけとして、性別にまつわるこんな症例があります。外性器の見分けがよくつかないために、男の子なのに女の子と思って育てられた子どもは、しっかりと「女らしさ」が身に付いて育ってしまった。第二次性徴期になって、自分の体の性は本当は男性であるということが分かって、これから先男性として生きるか、女性として生きるか考えたときに、結局、育ちの性別である女性を選んだということです。逆のパターンを見ても、文句なく育ちの性別を選ぶ人のほうが多く、それで何ら不都合はなかった。つまり、もって生まれた性別よりも、育ちの性別のほうが本人にとっては重要だということです。

その「育ち」とは具体的に何かというと、「周囲の思い込み」「本人の思い込み」「男らしさ・女らしさについての共同幻想」……と様々あるわけですが、それらを担う社会・文化は、「家庭環境」「教育環境」「情報環境」の三つに分けられると思います。家庭、学校、メディアが、その人の性別や「らしさ」を決定づける大きな要因になっているのです。

しかし今や、「女性である」「男性である」といった“護送船団方式”では、少子・高齢社会を乗り越えていくことはできません。女性も男性も一緒になって社会を支えていかなくてはならない男女共同参画の時代に、「男だから」「女だから」は通用しません。性別よりも、その人の個性を大事にした生き方が求められているなかで、影響力の大きい家庭や学校や情報環境において、性別による固定的な考えの見直しが求められているのです。

 

メディアが語る女性像・男性像が私たちの性別認識を形づくる

親をはじめとする周囲の大人たちは、生まれた子どもの性別に応じて、しつけをします。また学校では、性別によって授業の内容が異なるなど、いわゆる二重基準がかつては存在していました。けれども、家庭教育においても、学校教育においても、近年、男女共同参画社会づくりに向けた施策のおかげで、ジェンダーにとらわれない取組が、国や地方の現場において見られるようになってきました。家庭教育に関するセミナーが各地で開催されていますし、学校では男女混合名簿の導入などが代表的な例です。

しかし、いちばんやっかいなのが、メディアです。とりわけ、社会的影響力の大きいマス・メディアが描くジェンダーには、旧来の固定的性別役割分業を踏襲し、性を商品化したような表現が依然として少なくありません。民間のメディアは営利を目的としていますから、視聴率や部数を上げなければなりませんので、どうしても既存のジェンダーに迎合的になります。

そうしたメディア環境に、われわれは常にさらされています。活字や映像だけでなく、街中のポスターや看板なども含め、あらゆるところにメディアがあふれているのです。ましてや、インターネットが普及した今日、私たちの周りを無数の情報が飛び交っています。メディアは空気のように存在するので、見たくなくても、読みたくなくても、つい目に入り耳に入ってしまいます。私たちは否応なく、それらに接し、メディアが語る「男性像・女性像」を、知らず知らずのうちに取り込んでいます。メディアが送り出す男性像・女性像が、私たちの性別認識を形づくっているといっても過言ではありません。

民間メディアは営利を目的としていますし、表現の自由との兼ね合いから、それを公権力が規制するようなことがあってはなりません。しかし、商売だからといって、女性と男性の固定的な役割分業、あるいは女性をその人格から切り離して商品化した情報などをそのまま垂れ流していていいのかというと、そうではない。たとえ民間であっても、メディアは公共的な側面ももっているわけですから、どこかで歯止めをかけないといけないと思います。近年、一部の大手マスコミで自主的にジェンダー表現に配慮した内部ガイドラインづくりに向けた動きが見られますが、まだまだ不十分です。この問題の解決には長い期間を要すると思われますが、一方で、情報を受け取る側の私たちが、メディアに影響されない、逆にメディアを読み解く力をつけていこうという姿勢も必要になってきているのです。

 

メディアにおける人権擁護とガイドライン策定の動き

メディアとジェンダーをめぐる論議は、1995年に中国の北京で開かれた第四回世界女性会議においても重要議題として扱われました。参加各国には、メディアが描く女性像を分析するとともに、国民のメディアに対する批判力の育成が求められました。日本では、96年に答申された「男女共同参画ビジョン」において「メディアにおける人権の推進・擁護」が掲げられたのをはじめ、同年12月に閣議決定された「男女共同参画二〇〇〇年プラン」や、「男女共同参画基本法」(99年)に基づいて策定された「男女共同参画基本計画」(2000年)では、「メディアにおける女性の人権の尊重」がうたわれています。

その具体策の一つとして挙げられているのが、「男女共同参画の視点からの国の行政機関の広報ガイドラインの策定、浸透」で、「男女共同参画の視点から、国の行政機関の策定する広報・出版物が遵守すべきガイドラインを策定し、職員に広く周知することにより、国の行政機関の広報・出版物において、性別に基づく固定観念にとらわれない、男女の多様なイメージを積極的に取り上げる」ことと、そのガイドラインを「地方公共団体、民間のメディア等に広く周知するとともに、これを自主的に規範として取り入れることを奨励する」ことを求めています。

神奈川県川崎市の男女共同参画センターが2001年度に行った研究事業「ジェンダーの視点からの川崎市域における公的市民向け刊行物に関する調査研究」にかかわったことがあります。この調査では、『市政だより』をはじめ、市内の各種公的施設に置かれている公的刊行物約450媒体を収集し、性別による偏りのある表現がないか、どのような刊行物にどのような問題点があるのかを分析したのですが、あらためて見ると、ステレオタイプな描き方があちこちに見られるのです。登場する男女比は半々なのに、なぜか介護するのは女性だけ、あるいは納税のお知らせのイラストは男性だけだったり、女性である必要がないのにポスター全面に笑顔が載っていたり……。

公的広報はその性格や立場から、人権に配慮するのは当然といえます。行政が使う言葉や表現は社会的な基準とみなされやすく、社会に与える影響も大きいため、それらに性別による固定的な表現がないかどうかなど、企画・製作段階で十分検討されなければなりません。先の基本計画がガイドラインの策定を勧めているのもそうした理由からで、「隗(かい)より始めよ」ではありませんが、公的広報が率先して模範を示すことで、民間のメディアにも大いに参考にしてもらおうということです。国では、今年の3月に内閣府男女共同参画局がガイドライン(『公的広報の手引』)を公表しましたし、既に、都道府県や政令指定都市などでは独自にガイドラインを策定し、関係機関や一般などに配布して活用しているところもあります。

 

職員全員が男女共同参画の視点を共有する

これらガイドラインは、広報や男女共同参画の担当者だけでなく、ほかの職員たちにとっても参考になると思います。担当各課で刊行物をつくったり、今やHPなどは各課でサイトをもち情報を出したりしていますから、ガイドラインの理念を庁内で共有してほしいと思います。

そういった行政職員を対象にした、ジェンダーに関する研修会に招かれます。時にはワークショップ形式で、皆で行政の広報物を持ち寄って、グループに分かれ、それらに偏った表現がないかどうかを調べたりします。そういった目であらためて見ると、「なんかこれ、おかしいね」といった声がグループの中から、ちらほらと聞こえてきます。それだけ私たちは、ふだん情報に流されていることが分かります。首長も含めた職員全員に男女共同参画の視点は必要ですし、広報物自体が「気づき」のための身近な素材になりますので、こうした研修はオススメです。

以前参加した神奈川県の「性差別表現の是正に関する検討委員会」で、どうすればメディアが偏ったジェンダー表現から変わっていけるかについて話し合ったことがあります。まずはメディアに接する市民が育っていけばメディアも変わっていくだろう、この問題は10年、20年かけて取り組んでいくしかない、という結論でした。

規制するのは簡単ですが、それでは魂は入りません。規制せずにメディアを変えていくためには、読者や視聴者、あるいは情報発信する立場の人が、メディアに強くなることが必要だと思います。偏見にとらわれないまなざしでメディアを読み解いていく力、いわゆるメディア・リテラシーが今、注目されています。そのためには、身近な公的広報が威力を発揮するでしょう。

公的広報は自ら模範を示すとともに、メディア・リテラシーを向上させる役割をも、もっているのです。

 

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