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広報研究ノート 広報理論

月刊『広報』1997(平成9)年5月号初出

行政広報戦後史 小山栄三と日本広報協会

明治学院大学社会学部名誉教授 三浦 恵次

1 GHQとPR

日本の非軍事化と民主化の実現を、連合国軍総司令部(GHQ)は、当初アメリカ軍の直接軍政によって断行しようと考えていた。しかし、予想よりも早く日本が降伏したことで、占領行政プランの立ち遅れが生じ、欧米とは全く価値観を異にする文化を有し、異質な社会構造を持つ日本に対する専門的知識、更に複雑・難解な日本語の専門家ともいうべき要員の不足などによって、少数の専門家と理解力を持った者を中心に占領担当官側のスタッフ・セクションを形成せざるを得ない結果となった(注1)。こうした理由で、GHQは当初の日本占領計画を変更し、日本政府を通しての間接統治を採らざるを得なかったのである。だが、この結果こそがPR(Public Relations)を日本に植え付ける絶好のチャンスになった。

なぜなら、GHQは間接統治のための一連の対日政策、すなわち日本の非軍事化、民主化のための政策、それを遂行するチャンネルとしてのPRを考え、PRをもって日本の行政の民主的運営に乗り出す、つまり「行政の民主的運営のためのPR」をそのテコにしたからだ。一方でPRの原則と技術の啓蒙に努めるC・I・E・O(Civil InformationEducation Office)を早期に設置し、他方で日本の政治を動かす通路としてP・R・O(Public Relations Office)の設置を中央、地方官庁に示唆し、PR実践化を推進した。 しかしここでいう示唆は、当時の占領軍権力のもとでの示唆であり「当時のならわしは、単なる“示唆”ではなく、ほとんど指示・命令と同じように考えられていた」 (注2)。それは日本にとって歴史上、経験することのなかった対日民主化政策であり、日本はP・R・Oの設置という意向に即時添うように要求されたのである。しかし、「いわゆるオールマイティからの“示唆”だから、これは一議に及ばず設置しなければならないのだが、困ったことには、かんじんの“P・R”ということがハッキリしない」(注3)というのが事実であり、通訳に聞いてもあいまいで、「弘報」「報道」「情報」「渉外」「秘書」という字が当時PRに充てられた日本語であった。

P・R・Oの設置を通してPR実践を推進したGHQは、1949年の夏、C・I・E・O主催による日本で初めての広報講習会(PR技術研修会)(注4)を開催した。この講習会は主として、政府広報関係者を対象として行われ、広告代理店業者なども招かれていた。まさにここでは、政府がその行動についての情報をいかに政府側から、円滑に国民に伝えることができるかという、情報を知らせる技術的問題に関して示されているだけである。事実、この講習会の記録「広報の原理と実際」(Principles and Techniques of Public Information in Japan )では、インフォメーションとしての広報が強調されている。しかしここでの原理は、アメリカという社会を基礎としているものであって、それまでの日本における「天皇の官吏」としての政府・政府機関、あるいは国民を前提にしてのものではなく、更にはそれらを問い直すことも示されてはいない。それは特殊な状況下にあった日本政府・国民という考えが抜け落ちたまま、アメリカの社会を前提にして、日本政府・国民はその対象とされたととらえられる。逆に言うと、日本側はそうした日本の特殊性の中でしか物事をとらえることができない状況、つまり「官」と「公」を認識できない状況だったのである。

 

2 GHQと小山栄三

だが、このことについて、日本人で十分に把握できる人物がいなかったわけではない。更にGHQにしても、ただ示唆していただけではなかった。なぜならその接点に小山栄三氏が存在したと考えられるからだ。

小山氏がGHQの出頭に応じたのは、言うまでもなく既に米国の経験的方法の重要性と可能性について検討を重ねていて、GHQのその指導に共鳴するところがあったからだ。小山氏は言う。「1945年10月といえば終戦直後のこととて米軍の戦車が虎の門のような要所の町の角角に待機して警戒にあたり、追放の暴風雨が政界、学界、財界にふきまくってひとびとは不安と恐怖におののいている時であった。

突然、日比谷のマッカーサー司令部に出頭すべしとの命令を受けとった。理由がわからないのでおちつかない気持で出頭すると3階の一室に米軍将校3名、速記者2名がいて『あな たは調査した経験がありますか』『世論を調べるにはどんな方法がよいでしょうか』『全国民から標本をどうして選びますか』と質問の矢をあびせかけてきた。一応質問が終ったら彼等は退室し、しばらく待たせられたが再び入室した時には、彼等は威儀を正し、『今度日本政府が世論調査機関を設けることとなった。GHQは君を推せんすることにきめたからしっかりやって欲しい。出来る限りの援助をする積もりだ』といわば世論調査の資格テストをされたのである」(注5)。

小山氏は更にこう言う。「東大で世論や宣伝の講義をし、大学時代からセレベスやミクロネシヤに民族調査に行き、厚生省人口問題研究所で調査部長をやったりして調査には経験があるというものの、さて、国家的規模で実際に世論調査を行うとなると責任が重大なのでまず組織を作り、調査員の訓練と啓蒙運動から始めなければならなかった」(注6)と。事実、内閣情報局世論調査班が企画した世論調査の実施などの停止が、C・I・Eから通達されることもあった。その理由としてGHQ側にしても、米国からの専門家による訓練、機構整備が望まれていた。小山氏も「当時の日本には世論調査の専門家などは一人もいなかったので米国の専門家を招いて新聞社や放送局等の調査担当者の研修会を催し、世論調査の理論的基礎と実施技術を学んだ」(注7)とも述べている。

 

3 小山栄三のPR観

小山氏は戦後7、8年、一連の世論調査関連の職務にあった。『世論調査報告書全八巻』(日本広報協会発行、1992(平成4)年)が実績として残っている。更に加えるとすれば、1946(昭和21)年4 月1日に時事通信社内に世論調査を担当する調査局が設けられている。これは当時、大蔵省がその機構内部の実態を調査する必要から、時事通信に調査機関設立の働きかけがあ り、そこから「外部受託の調査を企業として」始める契機となっている。そしてこの機関の設立に際して、「大蔵省から数十万円の研究費」が出ており、そこでも内閣世論調査課から小山氏は加わっている(注8)。

内閣情報局には、次の3人が主要な役割を果たしていた。例えば、「国内広報に関して は当時文壇の大御所と言われた菊池寛氏、国際宣伝に関しては現在の時事通信社社長・長谷川才次氏、世論調査に関しては私が参与として推薦された」(注9)。小山氏と長谷川氏はそのころから、ほぼ10年間、小山氏が国立世論調査所所長を辞任するまで、お互いに協力し合いながら重要な役割を担ってきた。小山氏の令息・小山観翁氏によると、小山氏と長谷川才次氏の部下、調査局長・沼佐隆次氏は“健全な世論形成”については意見が食い違った。小山氏はどちらかというと、戦前・戦中を通して実感した公衆や世論の動揺性から、世論形成には政府の指導が大切であると主張し、他方、沼佐氏は通信関係の経験から、それはマスコミの指導に任せるべきだと反論したという。

小山氏はその後、立教大学教授として在野にあって、彼の主張を貫くことになる。小山氏はその著書『廣報学』(1954(昭和29)年)の中で、政府の指導についてこう言う。「1 行政事務運営を円滑にし、その能率を高めるため 2 政策の立案、実施、効果を民衆に説明するため 3 政府及びその課題に対する民衆の態度を決定させ、その協力を得るため 4 政府機関、その政策、実行に向けられた誤解を訂正し、批判に解答するため 5 政府部内の職員を教育し、その活動に参加協力させるため」(注10)と。

結局、この構想は1954年3月17日に、広報関係団体、つまり広報研究会(会長・小山栄三氏) となって具体化され、初めは政府広報の一翼を担うことを使命としていた。そして時を同じくして(1954年5月11日)、もう一つの広報関係団体、つまり全国広報研究会(会長・金森徳次郎氏)が誕生し、これは地方公共団体(自治体)の広報活動への協力と連携を主眼とされた。「しかし、地方公共団体の行う行政も国の行政の一環をなすものである以上、両団体は、互いに足らざるを補う関係にあった。まして広報という“同じ土俵”にあれば、そのつながりは否が応でも通りいっぺんの浅いものであるはずがない。例えば、広研の小山栄三会長は、全広研の理事長であったし、全広研の樋上亮一常務理事(人事院広報課長)は当時政府広報の推進母体であった各省庁広報主管課長会議のメンバーの一員であった。のちに(1964(昭和39)年)両団体が合体して、今日の社団法人日本広報協会の発展の基礎になったのも、既にこの時から定められていたといってもいい」(注11)。

小山氏は両団体の組織づくりや活動に尽くしつつ、一方でその指導・啓蒙に当たった。例えば広研では『官報付録資料版』や『写真公報』(のちの『フォト』『Cabiネット』)が発行された。他方、全広研では『広報研究ニュース』が発行され、また「全国広報紙コンクール」や「全国広報大会」が実施された。しかも小山氏はその『広報研究ニュース』(創刊号、2号および3号)の「欧米の民主政治と広報活動」で、また『広報研究』(86号および87号)の「行政広報の基本理念12」で、また『広報資料月報』(87号および88号)の「公聴(上)(下)」で、政府・自治体広報の指導・啓蒙に当たった。更に、小山氏は『廣報学』(1954年)を底本とし、新しい課題を加え、『行政広報概説』(注12)(1971(昭和46)年)や『行政広報入門』(注13)(1975(昭和50)年)を発行し、両広報団体の路線づくりを進めた。

極端な言い方をすると、小山氏の路線は両団体(のちの日本広報協会)のそれであり、またGHQのそれでもあった。そしてその路線において、小山氏は終始、政府や自治体に関してだけとらえていたのではない。民衆の把握、特に動揺性が絶えない民衆を念頭に置き、政府や自治体の指導のみならず、そうした民衆の指導をもってして、その両者の善意友好関係がつくられ初めて円滑な行政が展開できると考えていたのではなかろうか。しかもこれは「官」としての立場ではなく、「公」としての立場での政府の民衆に対する指導、すなわち小山氏のPR観であり、これは特筆すべきことと考える。

 

おわりに

1995(平成7)年に、アメリカで、W・N・エルウッド編の“Public Relations Inquiry asRhetorical Criticism”(注14)という本が出版された。題名のとおり、広報 (PR)は問答(批判の交換)の場であるといった問題意識のもと、アメリカ企業PRの諸事例を分析し、ある展望を示したものであった。つまりそれは、各種のアドボカシー(advocacy=下からの自主的な援助活動)の中に、広報(=PR)活動を位置付けるというもの。日本においても最近、福祉、広告、都市計画などの分野で実施されている。日本広報協会の今後は、この方向をきちんと見定め得るか、つまりこの方向で小山氏のPR観を超え得るかにかかる、と言ってもよかろう。

(本稿は日本大学の岩井義和氏のご協力を得てまとめたものであることを、ここに付記しておく)

(注1)竹前 栄治・中村 隆英監修『GHQ 日本占領史 1 GHQ日本占領史序説』・『GHQ 日本占領史 2 占領管理の体制』日本図書センター、1996(平成8)年、参照。そのほか、思想の科学研究会編『共同研究 日本占領軍その光と影(上)』徳間書店、1978(昭和53)年、参照。

(注2)樋上 亮一『広報の盲点と焦点』日本広報協会、1963(昭和38)年、262ページ。

(注3)前掲書、262ページ。

(注4)「昭和20年以来、中央及び地方政府の諸機関歯、政府に関する広報を国民に知らしめるために広報部を創設するにいたったけれども、日本広報協会に於いては、政府から各種の広報を自由に国民に伝えるという考えが新奇であったため、これらの広報部は幾多の困難に遭遇した。そこで、連合軍総司令部民間情報教育局情報政策企画課では、これらの困難な問題を解決するために中央政府に対し、昭和24年7月12日から10月4日まで東京放送会館に於いて、13回に亘る広報講習会を開催したのである。その目的は広報媒体の使用、資料の準備と頒布、パブリック・リレーションズの実施及び各都道府県機関との連絡に関する優良な専門技術について、日本の中央政府広報部長及び専門家に補佐助言を与えることにあった。」(日本廣報協会『広報の原理と実際』1951(昭和26)年、2ページ)※日本廣報協会は(社)日本広報協会とは別組織。

(注5)小山 栄三「世論調査の陣痛期」『日本世論調査協会会報』第49号、1982(昭和57)年、1ページ。

(注6)小山 栄三『世論・商業調査の方法』有斐閣、1956(昭和31)年、1~2ページ。

(注7)前掲論文、小山「世論調査の陣痛期」1~2ページ。

(注8)吉田 裕・川島 高峰監修『時事通信占領期世論調査』大空社、1994(平成6)年、4ページ。

(注9)前掲書、小山『世論・商業調査の方法』2ページ。

(注10)小山 栄三『廣報学』有斐閣、1954(昭和29)年、324ページ。

(注11)日本広報協会『日本広報協会15年史』1ページ。

(注12)小山 栄三『行政広報概説』広報出版研究所、1971(昭和46)年、252ページ

(注13)小山 栄三『行政広報入門』ぎょうせい、1975(昭和50)年、338ページ。

(注14)William N, Elwood, Public Relations Inquiry as Rhetorical Criticism : Case Study of Corporate Discourse and Social Influence, 1995, pp. 344.
なお、Public RelationsとAdvocacyとの関係については、すでに以下の著作も出版されている。
Elsie F, Finch, Advocating Archives: An Introduction to Public Relations for Archives, 1994. pp. 202.

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