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オリンピックの高視聴率はテレビの再発見だった!

  • 伊藤 二良
    (社)日本映画テレビ技術協会専務理事

お盆休みの中からオリンピックが始まったためか、あるいは早い時期の谷亮子の金メダルに刺激されたのか、今回(2004(平成16)年)のアテネオリンピックの中継は、深夜の時間帯にもかかわらず大変な高視聴率だった。昼間眠そうにしている若者に「オリンピックか?」と聞くと「テレビのスイッチを切ることができずに見続けてしまった」と言う。オリンピックの中継を「勝敗の情報」だけに割り切ってしまえば、翌朝のニュースを見れば社会の話題にはついていけるから、深夜に眠い目をこすりながら起きている必要はない。しかし今回は「そこに居続けたい気持ち」に駆られたのだそうだ。

テレビのごく初期の時代は、その映像はライブのスタジオか中継か、あるいはあらかじめ作られた映画フィルムであった。当時の中継はカメラの台数も少なく、レンズの焦点距離も限られていたから、その映像は現在では鑑賞に堪えないものなのだが、当時は遠くの現象をリアルタイムで居ながらにして見ることができる、映像がもたらす一体感に感動していた。力道山のプロレスも、まさにそのような存在だった。

しかしVTRが発明されて以降は、テレビはライブの「被写体のある現場と視聴者が、同じ時間を共有し共感するメディアの特性」を、自ら否定するような番組制作に進んでいく。特にVTRが小型化されどこにでも持ち運べるようになり、またVTRの編集がきめ細かく行われるようになると、テレビの情報価値は単位時間の中に高い密度で詰め込まれた、映像の質と量にあると考えられるようになった。またデジタル放送が始まると、多くの情報が多重で放送されるシステムやインタラクティブなシステムが、これからの人にとって便利な放送であると宣伝されている。

これらは、いまや世界の放送機器の大半を生産する、日本の技術開発と運用努力によってもたらされたものであるが、技術の発展をベースとした情報にあふれる映像社会が、人に与える影響について討議されることは少なかった。逆に映像では理解しきれなかった情報は番組のホームページで補っていくといった、技術の欠陥を技術でカバーする、複合情報を提供するメディアへ進むことが良しとされた時代であった。

今回のオリンピックの高い視聴率をみると、昔のテレビ放送を知らなかった世代が、遠く離れた地域間でリアルタイムの時間を共有することで、映像から情報を得ていく人間の能力の偉大さを感じ、競技に立ち向かう選手の気持ちに自分を同化させることによって、映像メディアのもつ本来の力を再認識したのだと思う。スローな映像情報であるから、より強く本物を伝えられるのだ。

いとうつぐよし

1936(昭和11)年生まれ。テレビ会社の営業企画、技術局参事を経て現職に

 

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