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連載コラム

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広報って何? 悩める広報担当者の右往左往

公開日 : 2025年5月14日

第6回 広報紙の表情

雰囲気が違う!

 まちづくりへの貢献の話にはまだ続きがありますが、それは改めてすることにして、仲間たちから教えてもらったことの話に戻りましょう。

 毎月交換する広報紙が増えてくると、ほかにも発見がありました。

 例えば、色づかい。沖縄県のあるまちの広報紙は、同じ2色刷りでも原色に近いような色をよく使っています。ブーゲンビリアの赤のような気もするし、サンゴ礁の海を泳ぐ魚たちの色のような気もします。南国らしくていい感じです。

 福岡県にはスミ単色で、とてもおしゃれなデザインの広報紙がありました。デザインはカッコいいのですが、けっして無機質な感じではなく、人のぬくもりが感じられるあたたかい紙面です。相当デザイン力のある人たちが作っているんだなと、いつも感心していました。

 色づかいだけではありません。広報紙全体が醸し出す雰囲気には、市民との関係が反映されているような気がします。

 たとえば、大都市周辺の広報紙はなんとなく真面目で、ネクタイをしているような感じ。インターホンを押して、「こんにちは、〇〇市役所です」と誠実そうな笑顔で玄関の外に立っているイメージです。

 最初に私の目からウロコを落としてくれた新潟県安塚町の広報紙などは「こんちは~!」と言いながら勝手に居間に上がってきそうな感じ。玄関にいると「あれ? なんで上がってこないの?」と家の中から声を掛けられそう…。そんな住民との近さが感じられます。

 どれがいい、どれが悪いというのではなく、「個性」があるのです。まちが違うのですから、それは当たり前。コミュニケーションは相手との関係によって変わるのが自然で、そうでないほうが不自然です。

 「じゃあ、うちの広報紙は?」

 またまたわが身を振り返ってみることになりました。

 

 

わがまちは「大きな田舎まち」

 長崎というまちは、ご存じのように江戸時代には出島があり、貿易で栄えたまち。港町として発展した歴史の始まりは、十分な水深を持った奥深い入り江があったからです。入り江の周囲は小さな山で囲まれていて、平地はあまりありません。この山がちな地形のまちに、貿易をするためにたくさんの人が集まってきました。やがて江戸幕府の天領として奉行所も置かれ、まちは次第に広がっていきます。ただ、広がるといっても平地が少ないので、入り江を埋め立てて土地をつくり、そこにいろいろな機能を埋め込んでいきました。

 こうやってできてきたまちは、いろんな機能がギュッと詰まった“天然のコンパクトシティ”になりました。私は「長崎サイズ」と呼んでいますが、繁華街のアーケードなどもあまり広くありません。貿易という共通の利害のもとで協力し合い、狭いまちで肩を寄せ合って暮らしてきた歴史は、人間関係の距離感にも影響を与えました。長崎人にとって心地よい人同士の距離感は、人の顔がちゃんと見える、少し近めの距離なのです。

 それに異国の人や文化を受け入れてきたまちなので、来訪者を歓迎する気持ちが豊かです。修学旅行生が道で地図を広げていると「どこに行きたかと(行きたいの)?」と声をかける人が多いまちでもあります。

 「大きな田舎まち」。

 愛情を込めて、私は自分のまちのイメージを言葉にしてみました。この表現が的確かどうかはともかく、自分のまちでみんなに情報を伝えて回る広報紙は、きっと人懐こくて、柔らかい表情で話しかけてくるに違いない。そう考えたのです。

 このイメージは、広報紙の表紙づくりや紙面のリニューアルに、とても大きな影響を与えました。

 広報紙の表情はまちごとに違う。自分のまちに合っていればそれでいい。

 これも広報仲間たちに教えてもらったことの一つです。

 

 

執筆者紹介
田上 富久(たうえ とみひさ)

1956年長崎県岐宿町(現・五島市)生まれ。80年長崎市役所入庁。26年7か月の職員時代のうち13年6か月が広報担当。2007年4月長崎市長就任。23年4月まで4期16年務め、その間、長崎県市長会会長、九州市長会会長のほか、被爆都市の市長として、日本非核宣言自治体協議会会長、平和首長会議副会長などを務める。好きな言葉は「一隅を照らす」「人間万事塞翁が馬」。現在は、長崎地域力研究所代表などを務める。

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