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連載コラム

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広報って何? 悩める広報担当者の右往左往

執筆 : 田上富久(前長崎市長)

公開日 : 2025年8月27日

職員時代に13年6か月にわたって広報を担当。その後16年に及ぶ市長在任中も広報の大切さを実感してきた前長崎市長・田上富久さんによるエッセイです。

第21回 続・のびしろ発見!

さまざまな反応

「まちのおもしろさを発見する」というコンセプトで行政が印刷物を出すことは珍しかったので、『NAGASAKIさるく』が創刊されると、内部からも外部からも反響がありました。
「いいのをつくったね」という声の一方、「やりすぎだ」「税金でこんなのを出す必要があるのか」という声もありました。でも、あまり気にしませんでした。「まちに必要なものだ」と思っていたからです。もし誰かがつくってくれるなら出す必要はないけど、今はないから出すんだ、と考えていました。
市長にも批判的な声が届いていたようで、少し気にされていたようでした。ちょうどそんな時、まちづくりの専門家と市長が対談することになりました。専門家から「これ、とってもいいですね。こんなのを市役所が出すなんてスゴい!」と褒めてもらったおかげで、お目玉を食らうこともなく、無事第2号の編集に取りかかることができました。神様に感謝です(笑)。
本屋さんは、最初はどんなものかよく分からないまま、こちらの熱意に付き合って置いてくれた感じでした。でも、号が積み重なるごとに応援してもらえるようになりました。それは単なる売り上げの問題ではなく(もともと利益はほとんどないのですが)、地元に貢献したいという気持ちからのものだったと思います。『NAGASAKIさるく』専用の書架を置いて、バックナンバーを並べてくれる本屋さんも出てきました。
市内の全世帯に無料で回覧していたこともあり、売り上げはそこそこだったと思います。もともと無料だったことと、本屋に置くのは市民の目にふれることが目的だったので、財政課からも売り上げについて指摘されることはありませんでした。

 

殻を抜け出す体験

『NAGASAKIさるく』は、今みると何の違和感もなくて、むしろおとなしい感じさえします。あの頃のさまざまな反応や自分たちの熱量は何だったんだろう、と不思議な感じもします。でも、時代の流れの中で一つ殻を抜けた体験だったのは間違いありません。
『NAGASAKIさるく』は1998年から2007年まで年2回発行しました。『ながさきジーン』という別のコンセプトの冊子にバトンタッチしたのは、私が市長になった年です。切り替えた一番大きな理由は、市内の出版社から同じようなコンセプトで、とてもレベルの高い季刊誌が創刊されたこと。まさに「役割を終えた」というのが一番の理由でした。その季刊誌は今も発行されていて、全国的にもとても高い評価を得ています。

 

広報紙でもチャレンジ

ところで、この「遊び心を持って、まちの魅力を伝えよう!」というチャレンジの場は、『NAGASAKIさるく』だけではありませんでした。
『広報ながさき』では、江戸時代に出島で起きた出来事を新聞形式で伝える「出島新聞」や、長崎にまつわる疑問を次々に解明する「ながさき自由研究所」というコーナーをつくって、『NAGASAKIさるく』と同じように、楽しくまちのことを知ってもらいました。
その後、“ご当地検定”ブームが起きたり、“まち歩き”ブームが起きたりして、まちのことを知る動きが全国的に広がりましたが、まちのことを知ることは決して一時のブームではなく、まちづくりの基本なのだと思います。
まちと人は似ています。生い立ちが違ったり、大きさが違ったり、歴史が違ったり、得意分野が違ったり、市民性(性格)が違ったり…。一人一人が違うように、どのまちにも個性があります。
知らないと通り過ぎてしまうけど、まちは知れば知るほど好きになります。好きになると、もっと良くしたいと思うようになります。そこからまちづくりのエネルギーが生まれてきます。いろんな方法でまちのことを知ってもらうのは、広報の大事な役割だと思います。

 

 

執筆者紹介
田上 富久(たうえ とみひさ)

1956年長崎県岐宿町(現・五島市)生まれ。80年長崎市役所入庁。26年7か月の職員時代のうち13年6か月が広報担当。2007年4月長崎市長就任。23年4月まで4期16年務め、その間、長崎県市長会会長、九州市長会会長のほか、被爆都市の市長として、日本非核宣言自治体協議会会長、平和首長会議副会長などを務める。好きな言葉は「一隅を照らす」「人間万事塞翁が馬」。現在は、長崎地域力研究所代表などを務める。

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