
連載コラム
広報って何? 悩める広報担当者の右往左往
執筆 : 田上富久(前長崎市長)
公開日 : 2025年9月17日
職員時代に13年6か月にわたって広報を担当。その後16年に及ぶ市長在任中も広報の大切さを実感してきた前長崎市長・田上富久さんによるエッセイです。
第24回 3日で市長になる
現職市長 凶弾に倒れる
広報から観光部に異動して「長崎さるく」というまち歩きを企画した後、私は統計課に異動しました。そこに3年ほどいた時に、誰も想像しなかった大事件が起きました。現職市長が4選を目指す市長選のさなかに暴漢に銃で襲われ亡くなるという事件が発生したのです。
日曜日に告示された市長選は、翌週の日曜日が投票日。事件が起きたのは選挙戦3日目が終わった火曜日の夜でした。誰もが圧倒的な勝利を確信していた本命候補が投票日の数日前に突然いなくなるという事態が、どれほどの混乱を引き起こすかは想像していただけると思います。
市長選には現職のほかに3人の候補がいたのですが、実は緊急事態に備えて補充立候補という制度があり、追加で立候補できるようになっています。この制度を使って新たに二人の候補者が立候補することになりました。その一人が私でした。
信頼の輪
異例尽くしのこの選挙で私が選挙活動をしたのは、実質2日と2時間でした。結果は、補充立候補で出た二人がおよそ7万7000票と7万8000票を獲得し、953票という僅差で私が初当選しました。
市民のとってはほとんど無名の市役所職員が超短期決戦で当選した背景には、さまざまな当時の状況がありました。携帯電話とメールが普及していたことは、その中でも大きな要素だったと思います。選挙の後、しばらくして友人たちと集まると、その月の通信料金が驚くほど跳ね上がっていたことをみんな笑い話のネタにしていました。
私を知っている誰かが、私を応援しようとして電話やメールをします。当然「その人、誰?」という返事が返ってきます。「こんな人だよ」と答えると、「その人は知らないけど、信頼できるあなたが推す人なら応援するよ」という答えが返ってきます。おそらくそういう“信頼の輪”が同心円のように広がっていったのが、この選挙の実相だったのだと思います。
その後、パターンが違う3回の選挙(1回は無投票)を経験しましたが、この時の選挙が最も健全な選挙だったような気がするのは、時間がなかったからこそ、“選挙技術”が入り込む余地がなく、まさに“信頼の輪”がつくった選挙だったと感じるからです。さまざまな意味で、決してあってはならない選挙でしたが、何か大切なものが含まれた選挙だったと思います。
ダイヤモンド
読者の皆さんの中には、広報で右往左往していた職員が突然選挙に出た話になった、驚いている方もおられるでしょう。当然です(笑)。
言うまでもなく私は市長を目指していたわけでも、政治に関わっていたわけでもない、ただの市役所の職員でした。これまでお話してきたように、広報はじめその時々に与えられてきたミッションと、必死かつ楽しく格闘してきただけです。その歩みの中で、いろいろなことを学んできました。それは大切な“ダイヤモンド”として、私の心のポケットに入っていて、いつも私を助けてくれました。
たとえば、広報では広く浅く市政全体をみることができました。その中でまちづくりに関心を持ち、市民の中に入ってまちづくり活動をするようになりました。ネットワークの大切さを知ると、広報を異動してもほかの自治体の仲間と交流するようになりました。「やっぱり首長の視点を持ってしごとをしないといい仕事はできないよね」という仲間の言葉に感化され、メモ帳に政策のアイデアを書きためるようになっていきました。
何よりも、広報の仲間たちからまちを愛することの大切さを教えてもらったことは、仕事をする上での私の大切な基盤になっていました。緊急事態の中で担ぎ上げられたわけでもなく手を挙げた根っこには、そういう26年半の歩みのすべてがありました。
吉本新喜劇のような涙と笑いの初選挙の話は、このコーナーのテーマではないので省きますが、こうして50歳でいきなり市長になった私は、またまた未経験の大舞台で右往左往することになりました。そんな市長時代の広報との関わりについて、次号からお話ししてみたいと思います。
執筆者紹介
田上 富久(たうえ とみひさ)
1956年長崎県岐宿町(現・五島市)生まれ。80年長崎市役所入庁。26年7か月の職員時代のうち13年6か月が広報担当。2007年4月長崎市長就任。23年4月まで4期16年務め、その間、長崎県市長会会長、九州市長会会長のほか、被爆都市の市長として、日本非核宣言自治体協議会会長、平和首長会議副会長などを務める。好きな言葉は「一隅を照らす」「人間万事塞翁が馬」。現在は、長崎地域力研究所代表などを務める。