連載コラム
広報って何? 悩める広報担当者の右往左往
執筆 : 田上富久(前長崎市長)
公開日 : 2025年10月28日
職員時代に13年6か月にわたって広報を担当。その後16年に及ぶ市長在任中も広報の大切さを実感してきた前長崎市長・田上富久さんによるエッセイです。
第27回 広報が足りない!
次の時代の基盤づくり
私が市長に就任したのは2007年。明治初期に3,000万人台だった日本の人口が1億2,000万人台まで増え、これから下り坂に入ろうという、まさに大きな曲がり角の時でした。人口増の時代に設計されたさまざまな社会制度や意識を変えなければならない時代です。
一方、長崎市も大きな変化の時期を迎えていました。市長就任の直前に周辺の七つの町と合併したばかりで、面積は1.7倍になっていました。人口密度が下がる中で、合併のマイナス面を最小化しながらプラス面を創り出し、制度の面でも意識の面でも自治体としての一体感を醸成していかなければならない大事な時期でした。
それだけではありません。市役所庁舎をはじめとする多くの公共施設が老朽化し、耐震強度の面からも問題を抱えていました。もともと山がちで平地が少ないまちなので、広い土地を必要とする大きな施設の更新は、よほど計画的に進める必要があります。
「今は変化の時代。市役所も変わらなければ」というのが職員時代の私の問題意識だったのですが、市長になってみると、職員時代のイメージを上回る、スケールの大きな変革の時代を迎えていることが分かりました。
首長の役割は時代によって変わると考えていた私は、自分のミッションを「次の時代の基盤づくり」と定めました。
議会で二度否決される
新米市長の1期目は、試行錯誤の日々の中で現状を把握しながら総合計画をつくり、改革の種まきをしました。2期目は次の時代の基盤づくりの具体的なスタートです。まず、「経済」「まちの形(ハード)」「まちを支える仕組み(ソフト)」の三つを進化させましょう、と提案しました。
ところが、「経済」「まちの形」の主要事業の一つである MICE(マイス)施設の整備事業が、市民や議会の理解を得ることができず、思ったようには進みませんでした。
MICEというのは、会議やイベントなどを総称する言葉。その会場になる施設をつくり、交流都市としての発展の基盤にしようという計画です。新たに長崎駅横の土地を2ヘクタール購入し、そこに多額の費用をかけて施設をつくるというビッグプロジェクトだけに、議会も慎重になっていました。全力で説得しましたが、なかなか議会の姿勢を変えることができません。多くの議論を経て、結局プロジェクトの関連予算は否決されました。
議会の反対の理由の一つは「市民の理解が十分得られていない」というもの。まさに「広報が足りない!」という指摘でした。
難産の末ようやく可決
議会を納得させるためには、広報を徹底する必要があります。市長班、副市長班の三つのチームに分かれて、市内30カ所ほどで説明会を開くことにしました。どの会場でもさまざまな質疑が行われ、お互いの考えを知るよい機会になりました。同時に、まだ起きていないこと、これから起きることを説明することが想像以上に難しいことを痛感させられた体験でもありました。
ところが、計画を練り直して上程した案についても、土地の購入予算だけは認められたものの、建物についてはやはり議会で否決。よく言えば粘りがある、悪く言えばしつこい私は、副市長たちと一緒にもう一巡、市内で説明会を開いて回りました。
最終的に交流拠点施設の整備事業という新しい形になったプロジェクトは、三度目の正直でようやく予算が通ったのでした。
こうして、難産だったビッグプロジェクトが一つ前進することになりました。でも「次の時代の基盤づくり」のための事業はこれだけではありません。新しいやり方を導入したり、これまでのやり方を変更したりする施策や事業が、いくつも同時進行しています。今が変革の時期だということを市民に理解してもらわなければ、「次の時代の基盤づくり」は絵に描いた餅で終わってしまいます。
「広報を強化しなければ…」 こうして、広報は後輩たちのやり方にまかせる、という基本方針は、いったん棚上げすることになりました。
執筆者紹介
田上 富久(たうえ とみひさ)
1956年長崎県岐宿町(現・五島市)生まれ。80年長崎市役所入庁。26年7か月の職員時代のうち13年6か月が広報担当。2007年4月長崎市長就任。23年4月まで4期16年務め、その間、長崎県市長会会長、九州市長会会長のほか、被爆都市の市長として、日本非核宣言自治体協議会会長、平和首長会議副会長などを務める。好きな言葉は「一隅を照らす」「人間万事塞翁が馬」。現在は、長崎地域力研究所代表などを務める。