
連載コラム
執筆 : 田上富久(前長崎市長)
公開日 : 2025年8月13日
職員時代に13年6か月にわたって広報を担当。その後16年に及ぶ市長在任中も広報の大切さを実感してきた前長崎市長・田上富久さんによるエッセイです。
第19回 N課長
平穏な職場に激震!
このコラムを読んで、広報課の中で一職員の私が好き勝手にやっているイメージを持たれた方もおられると思いますが、そうではありません。長崎市の場合、広報係があって、いつも数人のチームで編集作業をしています。二度行った広報課で一度目は新入職員、二度目は係長なので、当然上司がいました。先輩も後輩もいて、いつもチームで仕事をしていました。
ただ、一度目の広報課は編集作業をすべて手作りでやっていたために、職人的イメージがあったのか、よほどのことがない限り課長が口を出すことはありませんでした。服装も「取材で寝転がって写真撮るから」などと言って自由でしたし、係長はお役所イメージとは程遠くヒゲがお似合いで、いつも自由な雰囲気をつくってくれました。そんな雰囲気の中で、「次はこれをやってみよう」「こうしたらもっといいかも」などとみんな向上心豊かでしたし、私も毎日のびのびと仕事をさせてもらっていました。
そんな広報課に激震が走ったのは、8年半いた一度目の広報課の5年目あたりのことでした。穏やかな広報課に異動してきた新課長は、例えれば、台風か地震か、はたまた火山の噴火のような人だったのです。
初めて上司に歯向かう
新課長のNさんは、異動してくる前からよく知っていた人でした。でも、“よその課長”と“うちの課長”では全然違います。いざ、近くで仕事をしてみると、それまでの課長とは全然違った強いリーダータイプでした。
お酒の席が大好きで、ほとんど毎日だれかと飲みに行きます。もちろん私たちも誘われます。一緒に行くこともありますが、締め切り前だとそうはいきません。ところが残って仕事をしていると、居酒屋から電話がかかってくるのです。
「そろそろ終わったころやろ。今から来んね(来なさい)」
今なら間違いなくパワハラです(笑)。
そんな時、事件が起きました。
課長が部屋に戻るなり、「なぜ担当部署の課長や部長の決裁をもらった原稿を広報課の職員が書き換えるんだ」と大声で言うのです。たまたま係長はいません。当時、私は在籍期間が一番長く、広報紙の編集長の役割をしていました。一瞬シーンとした中で、答えるのは私の役目でした。
席を立ち、課長の前に行きました。課長に反論するのは初めてでした。たぶん顔が真っ赤だったか、膝がガクガクしていたか、手と足が同時に動くか、はたまたその全部か…そんな感じだったと思います。
「どう言えばいいんだろう…」
その時何と言ったかもう覚えていないのですが、何度かのケンカのようなやり取りの後、最後にこう言ったのは覚えています。
「たとえ市長が書いたものでも、必要があれば書き換えるのが広報の仕事です!」
その場ははっきりとは決着がつかないまま、課長は席を立ち、私は自席に戻りました。
最高のサポーターに
その出来事の後、課長は少しずつ変化しました。よその課から「N課長がわざわざ来て、今度の特集に協力してくれと言われたよ」と言われます。担当課とうまくいかないことがあると、課長が乗り込んで行って課長同士で直談判。話をつけて帰ってきます。最高に頼りになる課長でした。相変わらず居酒屋から電話はかかるのですが…。
あとで聞くと、「わいたちの心意気ば感じたっさ(君たちの心意気を感じたんだよ)」と話してくれました。ストレートしか投げられない未熟な部下の気持ちをすくい取ってくれたのだと思います。
N課長とはほかにもいろいろなエピソードがあります。とてもあたたかくて、とても不器用な人だと分かってからは、最高にいい関係が築けました。年齢は20歳ほど離れていますが、今では私にとって大切な“年の離れた友人”です。
ほかにも個性的な仲間たちとの失敗談や笑える話は尽きません。広報担当を一人で担っている自治体の方も多いと思いますが、仲間がいない中でエネルギーを充てんしながら頑張るのは大変です。中にいなければ外で調達するのが王道。このコラムの第3回(ネットワークの力)でお話ししたように、ほかの自治体に仲間をつくることをおススメします。
執筆者紹介
田上 富久(たうえ とみひさ)
1956年長崎県岐宿町(現・五島市)生まれ。80年長崎市役所入庁。26年7か月の職員時代のうち13年6か月が広報担当。2007年4月長崎市長就任。23年4月まで4期16年務め、その間、長崎県市長会会長、九州市長会会長のほか、被爆都市の市長として、日本非核宣言自治体協議会会長、平和首長会議副会長などを務める。好きな言葉は「一隅を照らす」「人間万事塞翁が馬」。現在は、長崎地域力研究所代表などを務める。