
連載コラム
広報って何? 悩める広報担当者の右往左往
執筆 : 田上富久(前長崎市長)
公開日 : 2025年9月24日
職員時代に13年6か月にわたって広報を担当。その後16年に及ぶ市長在任中も広報の大切さを実感してきた前長崎市長・田上富久さんによるエッセイです。
第25回 挨拶は広報
挨拶の山
市長に就任したばかりのころは、毎日が初体験の連続でした。
何の準備もなく三日で市長になった私が、まず最初に面食らったことの一つが挨拶の多さです。挨拶といっても「おはようございます」「こんにちは」という簡単な挨拶ではありません。人が大勢集まった場で壇上でマイクを使って話す、みんなが「短かったらいいな」と思う、あの挨拶です。
集まった目的も、人数も、会場の雰囲気も違う場所で、1日に何度も主賓の一人として挨拶するのは、結婚式の友人スピーチとは違いました。おまけに三日で突然市長になった市役所の元課長がどんな挨拶をするのか、聞く人たちは興味津々です。
それだけではありません。実は私には、自分でハードルを上げてしまう悪いクセがありました。職員が書いてくれた挨拶文を、そのまま読みたくないのです。これは職員時代に聞いた政治家の挨拶で魅力的に感じたのは、やはり自分の言葉で話してくれる人たちの言葉だったからです。
市長は、翌日の挨拶文を全部自宅に持って帰り、どんな内容か予習することから始めました。本番でなるべく読まないようにするためです。でも、そんなことに時間を使うのはもったいないと気づきました。ほかにも勉強することが山のようにあるからです。
救いの神、現る
そんな私に救いの神が現れました。
ステージ脇から演壇に歩いて進み、挨拶を終えて帰ってくると秘書のN君が待っています。「今の挨拶、支離滅裂やったよね?」と尋ねると、N君は「はい。そう思います」と答えてくれるのです。たまにちゃんと話せると「今のはとても良かったと思います」とも言ってくれます。これが私のモチベーションを上げてくれました。N君が「良かったです」といってくれる“打率”をイチロー選手並みに上げることが当面の目標になりました。
ところが、前市長の秘書だったN君は3カ月ほどすると移動してしまいました。そこで後任のH君にも「今の挨拶、意味がよく分からなかったよね?」と聞いてみると、「はい。よく分かりませんでした」と正直に答えてくれました。引き継ぎがあったのか、長崎市役所には正直な職員が多いのか分かりませんが、こうして私の挨拶打率への挑戦は継続することになりました。
コツを発見!
そのうちに大切なことに気づきました。
挨拶の機会が増えると、誰かの挨拶を聞く機会も格段に増えます。それこそ1日に10人以上の人の挨拶を聞くこともあります。その中には、心惹かれる挨拶をされる方が何人もいました。「共通点は何だろう?」と考え続けるうちに、とてもシンプルな最大公約数を見つけました。それは「伝えたいことがある」ということです。声がアナウンサーのように聞きやすくなくても、滑舌や間が少しくらい悪くても、伝えたい思いを持っている人の言葉は心に残る、ということに気づいたのです。逆に、伝えたいことがないまま読む挨拶は、上手に読めば読むほど右から左へ通り過ぎていきました。
それからは挨拶の前に必ず、「ここでは何を話したい?」と自分に尋ねることにしました。我流ですが、これはとてもいい方法でした。ほんの数分ですが、ふっと心を落ち着かせる時間にもなりました。「話したいこと」は、その時その時に自分が強く感じたり考えたりすることなので、挨拶をするたびに“ネタ”の一つとしてストックにもなりました。
これは以前お話した木の例えと重なります。思いが根、考え方が幹、技術が枝、そしてきれいな花が咲く、という例えです。広報と同じように挨拶も、大事なのは“思い”と“考え方”だったのです。
市長の言葉は、市民にさまざまなことを伝える役割を持った、とても大切な広報。市民との間に信頼関係をつくるメディア。こうして図らずも、私は3回目の広報担当になったのでした。
執筆者紹介
田上 富久(たうえ とみひさ)
1956年長崎県岐宿町(現・五島市)生まれ。80年長崎市役所入庁。26年7か月の職員時代のうち13年6か月が広報担当。2007年4月長崎市長就任。23年4月まで4期16年務め、その間、長崎県市長会会長、九州市長会会長のほか、被爆都市の市長として、日本非核宣言自治体協議会会長、平和首長会議副会長などを務める。好きな言葉は「一隅を照らす」「人間万事塞翁が馬」。現在は、長崎地域力研究所代表などを務める。