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連載コラム

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広報って何? 悩める広報担当者の右往左往

執筆 : 田上富久(前長崎市長)

公開日 : 2025年11月26日

職員時代に13年6か月にわたって広報を担当。その後16年に及ぶ市長在任中も広報の大切さを実感してきた前長崎市長・田上富久さんによるエッセイです。

第28回 全員広報

秘書広報部を新設

MICE施設の建設計画に始まる紆余曲折は、まち全体が変化の時期にあることや、変化の具体的な情報について、市民にもっとしっかり伝える必要があることを痛感させてくれました。
実はこれは「広報が足りない!」という“ 量” の問題だけではなく、「広報の位置づけが弱い」という“ 質” の問題でもあり、その責任は広報担当者ではなく、市政のトップである市長にありました。
そこで広報担当が政策情報にもっと密に関われるように、秘書広報部長のポストを新設することにしました。新部長にお願いしたミッションは二つあります。一つは、まちが変化の時期であることを伝える広報キャンペーンを展開すること。もう一つは、時代に合った新しい広報戦略を立てることです。

 

長崎MIRAISM

新任の広報担当部長は、さっそく二つのミッションに取りかかってくれました。
まず、変化の時期であることを伝える広報キャンペーンについては、重点プロジェクトとして取り組んでいたさまざまな事業をセットにして伝えることで、まちが変わろうとしていることを発信してくれました。
名付けて「長崎MIRAISM」。
450年間進化し続けてきた長崎のまちを、いま私たちの手で未来に延ばすんだ、という意志を込めたネーミングです。
駅周辺開発、市役所新庁舎、まちぶらプロジェクト、恐竜博物館といった、市がプロデュースした事業だけでなく、民間企業が手掛けるスタジアムシティ(※)についても一緒に紹介しました。
あの手この手のキャンペーン展開は、まちの変化が少しずつ目に見えるようになってきたこともあり、次第に市民の間に浸透していきました。県やマスコミが「百年に一度の変革期」という表現を頻繁に使い始めたことも追い風になりました。

 

長崎市広報戦略

もう一つのミッションである新しい広報戦略づくりについても、東京で活躍していた長崎出身のコピーライターに広報アドバイザーに就任してもらい、その力を借りながら時間をかけて議論し、整理してくれました。そこで打ち出した基本姿勢と重点広報テーマはこんな感じです。

  •  基本姿勢は「全員広報」……すべての部署が主体的に広報に取り組むことを基本姿勢にする。
  •  重点的広報テーマは「くらしプロモーション」と「シティプロモーション」……市民には実用的な情報とまちづくりのストーリーの両方を!市外に向けては長崎の文化と変化を組み合わせて、まちの新しい魅力を! この二つを「重点的広報テーマ」として展開する。

この「全員広報」を掲げた広報戦略に基づいて、その後、各部局でおもしろい動きが始まりました。長崎MIRAISMもこの戦略の一環に位置付けられました。

 

長い宿題

二つのミッションについて、部長や担当者の報告を聴き、議論しながら、ふと思い出したことがありました。
一度目の広報課の頃、政策広報にあこがれて見事に挫折した時のことです(連載第5 回参照)。あの時、力のなさに落ち込みながら感じたのは「市政の中に広報がしっかり組み入れられていない」という現実でした。
「長い時間を経て、ようやくあの時の宿題に手を付け始めた、ということかもしれない……」 職員時代にやっと自分なりのゴールにたどり着いたと思った広報の旅は、まだ終わってはいませんでした。それどころか、16年間の市長時代は、市長が最も責任のある広報担当者だということを自覚させられる日々でした。市長もまさに「全員広報」のメンバーだったのです。

 

(※)スタジアムシティ
   通信販売大手のジャパネットが長崎市中心部にサッカースタジアム、アリーナ、商業施設などを整備するビッグプロジェクト

 

 

執筆者紹介
田上 富久(たうえ とみひさ)

1956年長崎県岐宿町(現・五島市)生まれ。80年長崎市役所入庁。26年7か月の職員時代のうち13年6か月が広報担当。2007年4月長崎市長就任。23年4月まで4期16年務め、その間、長崎県市長会会長、九州市長会会長のほか、被爆都市の市長として、日本非核宣言自治体協議会会長、平和首長会議副会長などを務める。好きな言葉は「一隅を照らす」「人間万事塞翁が馬」。現在は、長崎地域力研究所代表などを務める。

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